正調粕取焼酎の源流をたどる

先日の「テキーラ道場」とのコラボイベントで、数名の方から「正調粕取焼酎の蒸留技術」に関する質問を頂き、それに的確に答えることができませんでした。
自分は日本酒愛飲歴はそこそこ長いのですが、蒸留酒歴、そして正調粕取歴はまだまだ短く、蒸留技術についてはまだまだ素人同然なのです。

では、どうすれば正調粕取焼酎の蒸留技術への理解を深められるのだろうかと考えた末に、きっと「歴史」からのアプローチが良いだろうという結論に至りました。
その理由は二あって、一つは「自分が歴史に興味があり、吸収が速そうだから」、もう一つは「正調粕取の蒸留技術はその誕生時からほぼ変化しておらず、歴史的アプローチが有効と考えたから」です。

それ以来、書籍や論文を興味の赴くままに読んできましたが、その「初歩の成果」が頭の中で整理されてきたので、現在地をここに書き留めておきます。

■正調粕取焼酎の技術は【どこからやってきた】のか?

正調粕取焼酎は、一般に「本格焼酎」(単式蒸留器による焼酎)の一ジャンルとされています。そこで、まず「本格焼酎の伝播」と「正調粕取焼酎の蒸留技術」に言及した論文を概観し、技術の源流を探ります。

<論文:米元俊一「世界の蒸留器と本格焼酎蒸留器の伝播について」(2017)>
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk05810.PDF?file_id=9070

大局的な文化から蒸留技術までる言及する、非常に充実した内容の論文です。

論文の序盤では、「グローバルな蒸留技術の伝播と、その中における本格焼酎蒸留技術の位置づけ」が整理されています。
そして、「13世紀の中国の雲南省で、調理上の蒸し文化が酒の製造における原料の蒸しに、さらにその延長上で蒸留に応用され蒸留酒が生まれ、それが本格焼酎の蒸留技術に影響を与えた」と結論づけています。この要点は、以下の図に分かりやすく整理されています。

蒸留技術の伝播

中盤では、中国大陸で生まれた蒸留技術の日本への伝播について、以下4つのルートを提示し、比較検討を行っています。
 ① インドシナ半島▶琉球経路説(最有力説)
 ② 中国▶朝鮮半島▶対馬経路説
 ③ 中国南部▶東シナ海▶日本本土経路説
 ④ 中国(雲南)▶福建▶琉球経路説

蒸留技術の伝播ルート

著者は、この中で「①インドシナ半島▶琉球経路説」を最有力と結論付けているものの、別の箇所では「本土の焼酎は琉球・中国・朝鮮の製法が伝えられて当然と考えられるが、実はかなり複雑である」としており、明確に答えを出していません。

そして、終盤では、国内の「古式蒸留器」として4つの方式を取り上げた上で、粕取り蒸留器は、古来より東南アジア、中国、朝鮮、日本で広く用いられている「カブト釜式蒸留器」の一種であると整理しています。

4つの古式蒸留器

但し、その後に、「粕取り蒸留器は(中略)固形醪を蒸留することから大陸の蒸留の影響を受けていることも考えられる」と注記しています。
次のパートでは、この「固体醪を蒸留」という特徴について少し掘り下げます。

<「固体醪蒸留技術」独自の伝播ルートの可能性>
一般的な本格焼酎の製造では、液体醪(アルコール度数の低い発酵液)を作り、それを煮沸することによって、香り成分を抽出しつつ度数を高めます。これを「醪取り焼酎」と言います。
ところが、正調粕取焼酎の蒸留方法は少し変わっており、水を煮沸して蒸気を発生させ、籾殻を混ぜ込んだ固体醪(少量のアルコールを含有する酒粕)に通すことによって、香り成分を抽出しつつ度数を高めます。

画像4

このような「固体醪の蒸留」を行う蒸留酒には、正調粕取焼酎の他に、中国の伝統蒸留酒「白酒」(パイチュウ)があります。
白酒の製造においては、粉砕したコウリャン、トウモロコシ、ジャガイモなどを水と混ぜてレンガ状に成型し、そこにクモノスカビや酵母などを繁殖させ、固体のままアルコールを含んだ醪を造ります。そして、蒸気を通しやすくするために籾殻や落花生の殻を混ぜ、甑(こしき)を用いて蒸して蒸留します
つまり、白酒と正調粕取焼酎の蒸留技術は極めて似通っていると言えるでしょう。

米元氏の論文は、このような技術の類似性を踏まえ、正調粕取蒸留器の伝播においては、カブト釜式蒸留器の最有力伝播ルートである「中国南部(雲南省)→シャム(タイ)→琉球→日本本土」とは別に、「中国→日本」という別ルートの可能性もあると示唆しているのです。

一方、田中愛穂「琉球泡盛ニ就イテ」という文献には、「明治以前の沖縄の庶民の酒であったンムザキ(芋酒)は(中略)、籾殻を混ぜた餅麹をスターターとした固体発酵の醪を蒸溜していた」という記録があります。
つまり、「中国→沖縄→日本」という技術伝播ルートの可能性も考えられます

以上をまとめると、
①正調粕取焼酎を含む本格焼酎のルーツは、13世紀の中国・雲南省の「蒸し」を応用した蒸留技術にある。
②しかし、中国から日本本土への蒸留技術の伝播ルートを特定することは困難。

と言えるでしょう。

中国、琉球、日本本土は海を介しており、往来の自由度が高かったため、交流ルートを限定すること自体に無理があるのかもしれません。
上記の検討を通じて、泡盛研究の大家である萩尾俊章先生の名言「様々なもののルーツを考える場合、単一的・一方向的に伝来を考えることは慎まなければならない。人間の交流は多面的・重層的であり、両方向的なこともある。」を思い出しました。

(注)米元氏の論文以外に、小泉武夫「焼酎の伝播の検証と その後に於ける焼酎の技術的発展」(2010)も読み、これも素晴らしいな内容でしたが、ほぼ米元氏の論文に包含される内容だったので、ここでは取り上げませんでした。

■正調粕取焼酎は【いつ】誕生したのか?

<日本本土における焼酎の起源>
国内の焼酎製造の起源は正確には分っていなようですが、遅くとも16世紀には日本本土で焼酎が造られていたと考えられています。
例えば、1546年に薩摩国に上陸したポルトガルの商人は、当時の日本人が米から作る蒸留酒を常飲していたことを記録に残しています。また、鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社には、1559年に補修が行われた際に大工が残した「けちな座主(施主)で、一度も焼酎をふるまってくれず、ガッカリした」という内容の落書きが発見されています。

<「童蒙酒造記」(17世紀後半)に見る「粕取焼酎」の記述>
江戸時代最高の酒造技術書と言われる「童蒙酒造記」(1687年の成立と推定)では、日本酒の製造法に交じって「焼酒取様之故」(焼酎製造法)という一節があり、粕取り焼酎の製造法が記されています。
記載の分量は多くないものの、道具の作り方から、作業の手順、原料に対する製造量、蒸留粕の販売価格など、実践的な知識がコンパクトにまとまっています。(少々長いですが全体を引用します。)

焼酒取様之故
一 外取ハ江戸樽底を抜き,鏡に穴を開け,甑に拵,中程に竹の樋を仕掛,又其竹の中程に上戸を当て,鍋の雫を樋へ受込,外に樽を置,樽の口に又上戸を当て,樋より出る雫を樽の中へ入様に仕掛る也
一 壱取に粕三貫目,荒糠五升雑ぜ候,糠多きハ息能抜け候,又是より大取に為べからず,息抜けかね候
一 壱取に鍋の湯三度程替べし,手引加減の時替べし,湯援なれバ焼酒出不申一粕拾貫目二付,焼酒四升五合上,五升中,六升下也,是ハ諸白粕の積也,片白粕ハ右積りにて薄く侯
一 未明より弐人にて取れば大体二十取とる也
一 薪ハ粕拾貫目ニ付,大体三わ四わ迄一内取の事甑の内へ桶を入,粕の上に置,雫を受る也,外へ息漏ざる故焼酒よく候
一 焼酒霤積りハ鍋の湯何度替て,何程有之との積りを以取る也,依之功者入事也
一 焼酒変り粕にても取也,但し少ハ悪香出る物也
一 焼酒の粕能干し売買,大体石目其時干鰯の粉の石目也
一 替り酒を焼酒に取様の事酒壱斗に付,焼酒四升取ハ濃き上焼酒也
一 酒を焼酒に取様ハ灰壱弐合,水少し入て,釜に摺付,扱火を焼,熬付て,其後釜に酒を入,扨甑を掛て,外取にも,内取にも勝手次第に取也,是又鍋の湯手引かんにて替べし,又一取一取灰を摺付る事右同前,如此仕候ヘバ焼酒香はしきなり候

童蒙酒造記の著者は不詳とされていますが、自らのことを「鴻池流」(現在の兵庫県伊丹市で栄えた酒造の流派)の人間であると書いていることから、「17世紀後半には、当時の酒造の本場であった伊丹において、正調粕取焼酎が造られていた」と言えるでしょう。

<正調粕取焼酎の誕生と時代背景>
正調粕取焼酎がかなり普及していたと考えられる「17世紀後半」という時代は、戦乱の時代に終止符を打った徳川幕府が、国内統治のための諸制度を立案・実行するとともに、外交の安定と貿易利益独占のために海禁政策(鎖国)を開始した時代です。
そして、国内の政治的安定を背景として人口が増加し、幕府と諸藩は食糧を確保するために農業生産の拡大を図った時代でもあります。
以下のグラフから、1650年~1700年にかけて人口及び耕地面積が著しく伸びていることが分かります。

江戸時代の人口・耕地面積

出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E3%83%BB%E8%80%95%E5%9C%B0%E9%9D%A2%E7%A9%8D.JPG

過去の記事で言及している通り、正調粕取焼酎の製造は、アルコール飲料の生産にとどまらず、農地の肥料となる蒸留粕(下粕)の生産も目的としていたようです。

つまり、正調粕取焼酎は、単に蒸留技術が伝来したから生まれらのではなく、17世紀後半の「農業生産の拡大」という社会経済的要請と深く関わりながら誕生したと考えられます。

■正調粕取焼酎は【どこで】【誰の手で】誕生したのか?

<正調粕取焼酎と農学者・宮崎安貞>
正調粕取焼酎が誕生した場所と、その担い手については、3つの情報源に「江戸時代初期に福岡藩の農学者であった宮崎安貞が開発した」と記載されています。

①「日本醸造協会誌」昭和51年(1976年)7号「焼酎風土記-北九州」です。

酒かす焼酎の起源
清酒かすを煎じて(=蒸留して)出来た下粕を稲作の肥料とした技術の開発は、広く中国の農書を研究していた前記宮崎安貞の指導に依るかとも思われる

②ウェブサイト「酒仙人」-「粕取焼酎について」(日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会(SSI))

この粕取焼酎用の蒸篭型蒸留機は、福岡県出身の江戸の農学者、宮崎安貞が中国から伝えられたといわれ、17 世紀頃に発祥したようです。

出典:http://www.sake-sennin.jp/archives/shochu/%E7%B2%95%E5%8F%96%E7%84%BC%E9%85%8E%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

③「世界の蒸留器と本格焼酎蒸留器の伝播について」(米元俊一、2017)

この粕取焼酎用の蒸籠型蒸留器は、福岡出身の江戸の農学者、宮崎安貞が「農業全書」(1697年刊行)の中で広めたといわれる。
※この箇所の引用文献:宮崎安貞:農業全書(岩波文庫)岩波書店東京(1936)

<宮崎安貞「農業全書」を読んでみたが…>
上記3つの資料の根拠を確認するため、③の論文の引用文献であり、江戸時代の農業書の金字塔と言われる「農業全書」の関係個所(総論、穀物に関する部分)を読んだうえで、全文が掲載されているウェブサイトで「粕」「糟」「滓」など想定される単語の検索をかけましたが、粕取焼酎の記載は一切見つかりませんでした

宮崎安貞がこの本を執筆したのは晩年であり、未完で死去し、その遺志を継いだ貝原益軒が完成・出版しました。もし安貞が粕取焼酎の誕生に関わっていたとしたら、少しくらい言及されていても良いと思うのですが。。。

■まとめ

<考察結果の整理>
★正調粕取焼酎の技術は【どこからやってきた】のか?

①正調粕取焼酎を含む本格焼酎のルーツは、13世紀の中国・雲南省の「蒸し」を応用した蒸留技術にある。
②しかし、雲南省から日本本土への蒸留技術の伝播ルートを特定することは困難。
(※上記は米元氏の論文内容ですが、自分としても的を射たものだと感じています。)
★正調粕取焼酎は【いつ】誕生したのか?
遅くとも16世紀に蒸留技術が伝来していたことに加え、その後の社会経済情勢(戦乱の終結と統治体制の確立→人口増加→農業生産振興→肥料の需要の高まり)を背景として、江戸時代初期には正調粕取焼酎が誕生していたものと考えられる。
★正調粕取焼酎は【どこで】【誰の手で】誕生したのか?
福岡県で農学者・宮崎安貞によって誕生したとの説があるものの、真相は定かではない。

<終わりに:「庶民の酒」正調粕取焼酎の歴史探求の難しさ>
洋の東西や時代を問わず、「歴史」は権力者を中心に描かれるものであり、それに比べて庶民の生活・生業の記録は少ないものです。
酒についても例外ではなく、権力者が関わった酒の記録は比較的多く残されています。例えば沖縄の泡盛は、かつて琉球王の許可を受けた者しか製造できず、上流階級の飲み物や海外への贈答品とされていたということで、歴史資料が豊富に残されています。
一方、一貫して「庶民の酒」であった正調粕取焼酎は歴史資料が少ないようで、今回の研究でもかなり苦戦を強いられました。

今後は、さらに資料を探索するとともに、現地へのフィールドワークの結果も研究に反映できればと考えています。

<了>

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