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努力の正体

山を想って山に行かず、の日々を過ごしている。

山里を旅して地元の人と交流し、日常の営みと自然の営みを写真に撮って、それを文章にする。ときには山旅のことを人前で話して分かち合う。そういうことを生業にしているぼくにとって、山に行けないことは職場に行けないことと同義。だから最近のぼくは在宅勤務だし、山好きのみなさんと同様、じっとしているのがとても辛い。

収入は半減どころではない。今月はほぼナシに近いだろう。これを読んでくれた個人事業主仲間たちは、どうしているだろうか。
これから暮らしていけそう? そういうこと、語り合いたいよね。

それでも途切れずに案件の相談がくる人はそのことに感謝をしなければならないし、期待も空しく消滅した仕事に嘆く人は、それでもどうにかして前進しなければならないのだ。こんな状況になってみてはじめて、自分がいま後者に入ることを認識している。ああ、さらに辛くなってきた。

日ごろの仕事の多くは、ありがたいことに「大内節で書いて欲しい」という旅の手記やエッセイのオファーだ。それを大きく分けると、書く前に取材が必要なものと、すでに自主的に取材を済ませてある隠しネタを元手に筋立てするものとに分けられる。自主取材を先行してやっておくことが生業モデルのぼくにとっては、過去の山旅の思い出から筆を執るオファーはとてもありがたく、いますぐに十篇でもニ十篇でもエッセイを書く準備ができている。

しかし、この3月から5月にかけては、新規執筆のために取材ラッシュとなる予定だった。これはまた別の喜びがある仕事だ。山中の滞在期間やら原稿の締切日やらロケ日やらでGoogleカレンダーは隙間がないほど“色”が付いていたけれど、果たしてそのすべてが見合わせとなり、4月のスケジュールは文字通りみるみる“真っ白”になっていった。

ジグソーパズルのように日程調整することが当たり前にようになっていただけに、この飛びっぷりは爽快さすらある。いやはやそんな冗談はさておき、今の状態が半年も続くと、もたないだろう。いやなんとかするけれど。

……と、こんな状況説明とかグチを書きたかったわけではないのだった。

苦しいのは事実だけれど、四苦八苦しながらもどうにか工夫をして前向きに過ごしているからよし。もし同じような心境の個人事業主たちと「Zoom飲み会」をするならば、きっとぼくは「で、これからどうやって食べてく?」みたいな質問を相手にするに違いない。逆にぼくからは最近あたらしい気づきのあった「努力」というものの正体について話すと思う。なぜなら、その気づきこそが「これから」を作る極めて大切な要素だと思うからだ。

そこで、ここから先は、そんな気づきについて、書こうと思う。
いささか青っ白い小僧のような気づきだから、読んでもらいたい反面、やっぱやめて……と恥ずかしがる自分がいて、なんだか可笑しい。

◆◆◆

ビジネスメール上に「コロナ」という単語が初出したのは、1月末のこと。2月と3月は、予定していたトークイベントや山案内や講義などなど多くの仕事が中止かリスケとなり、以来「山を想って山に行かずの日々」となるまでには、そう時間はかからなかった。そうして手元に残ったのは、あり余るほどの空白の時間。前向きにとらえるならば、真っ白なキャンパス。思いのままに線をひき、色を付け、絵を描ける。

さてさて、どうしよう。こんな風にまとまった時間ができることもそうあることではないし、この貴重な機会でなければ出来ないアレコレをざざっと書き出してみることにした。すると、日ごろ疎かにしていたアレコレが、わんさかと出てくるではないか。あれもできるな、これもやっておきたい、それを忘れていた……と。

そのメモの中に、集中トレーニングという言葉が殴り書きされている。そうなのだ、いつかやりたいと思っていたのだ。その努力で衰えゆく肉体を変えるのだ!

しかし、それは明日の収入になるような努力では、もちろんない。むしろ今は、目先の収入をつくる努力の方が緊急度も重要度も高いはずではないか。

そんな葛藤があったものの、ひとまずやってみることにした。ピンときたらGO!である。自宅籠りが続いていて身体を動かす動機も欲しかったし。

これが、2月24日のこと。はじまりの日である。

集中トレーニング(筋トレとランニング)の日々

そんなわけで、とにもかくにも自宅でできる作業と、その合間にできる集中トレーニングの日々がはじまった。

年に100を超える数の山行を、もう何年もやり続けているので、それがそのままトレーニングと言えばトレーニングではある。ぼくが好んで行くのは、低山とはいえ行場のような岩尾根やクサリ場が多いし、行程も10~30kmを5時間からときには20時間ほどかけて歩く深い山渓だ。重めの荷物を背負って歩けば、ほどよい負荷にもなる。

しかし、常在戦場、いつでも山に慣れておくという意味ではそれでよいものの、脚力とか腹筋・背筋といった部分的なパーツなどは、やはり筋トレやランニングをして負荷をかけなければパワーが身についていかない。遠い昔は剣道柔道もやったし、サッカー部でもあったので、そのことは身体に染みついて理解していた。けれど、忙しさにかまけて時間作らず。いつかやる、いつかやる、と言いながら。

そこで、このたび集中トレーニングをするにあたり、なぜ今までそういう時間を作ることができなかったのかを考えてみた。そうして出た結論が「距離とか回数で計画する」から、ついつい目標が遠くなって億劫になるということ。つまり「どれくらいかかるか、時間が見えない」のがボトルネックだったんだろうな、と。

10km走ろう!
腹筋100回やろう!
あ、「でも」それってどのくらい時間かかるの? 日によって変わるよね?

とまあ、そういう具合に、でもが出る。

なので、距離とか回数で縛らないことにした。
結論、トレーニングが続かない人は、「時間」で縛るのがよい。

よし、1時間走ろう!

これなら、終わりが見える。シャワーを含めても90分後には仕事に戻れるし、今日何キロくらい走ったんだろうと、あとから確認する楽しみもある。

だからぼくは、1時間走。距離はその日次第。
11時にスタートすれば、お昼には帰宅し、12時30分にはスッキリサッパリした状態で作業に復帰しているわけだ。そんなわけで、ソーシャルディスタンスを念頭に、平日に走ることにしている。

よし、1日2分だけ腹筋をしよう!

朝起きて、YouTubeの動画を流しながら腹筋を2分。これで終了だ。
1日=1440分のうちの、たったの2分である。残り1438分は、自由だ。

動画は、断然にこれが良い。

【毎日2分】30日で腹筋を割るトレーニング 2020

毎朝のがちゃんに励まされながらやり続け、今日(4月23日)で連続60日目となった。1泊2日の出張でも、出発の朝やって、翌日帰宅後にまたやれば、継続は途切れない。継続こそ力なり、なんと30日できっかり腹筋が割れはじめたので、そのまま続けている。

週に何度かZoom飲み会があるから、ビールもふつうに飲んでいる。にも関わらず、この歳で腹筋が割れるとは。47歳ながら、この努力はいつしか自分の身心の変化に向けられていった。自己満足といえばその通りだけれど、事実として肉体がアップデートされていくのは、この不安な世情の中にあって裏切らない成果だし、なにしろそれが可視化されるのが◎だったのだ。

あ、腹筋に2分使うと、一日の残り1438分は自由だと言ったけれど、ランニングに60分、シャワーだなんだで28分使うなら、総合計90分になる。つまり1350分が、本当の自由ということだ。

◆◆◆

努力の正体

山を想って山に行かず、の日々は、まだしばらく続いていくだろう。

つい先日、近所のランニングコースを走っているときのことだ。走りながら散らかった思考が整理されていったり、なにか閃きがあったりすることが多いので、ぼくは物事を考えながら走ることにしている。

その時は、取材がリスケになってしまったとある山の原稿とかロケとかについて、どんな風に書こうかとか構成とかベースにするネタとか展開とか計画とか寄り道とか、そんなことを考えながら走っていた。このコースで取材をして、あの歴史話をベースに展開して……といった具合に。この空想登山が実に楽しい。

するとそのとき、構成とか計画とか、そういうことがぜーんぶぶっ飛んで、それらのオファーをしてくれた人たちの顔が、ふと浮かび上がった。突然。

嗚呼、そうか。
たしかにいま、自分の努力として走っている。しかしそのゴールは、ロードの終着点でもなく、ぼく自身の身心の向上でもなく、そういうことを飛び越えて、あの人たちの笑顔に向けられているのだ、と。そしてこの努力の成果は、そうしたチャンスを運んでくれた人たちがいて、舞台が出来て、はじめて本領を発揮することができる。そう思うと「あの人たち」には感謝でしかない。

相談を持ち掛けてくれてありがとう!仕事が再開するまで待っていてください、きっとパワーアップして期待に応えてみせますーー青臭いことを言うようだが、本当にそんなことを口ずさみながら、武蔵野の空を見上げ、こぼれそうになる涙をこらえて走っていた。サングラスをしていたことにホッとしながら、おれ、頑張ろうって。

こんな青臭い47歳でも文筆業ができているのだから、これから作家の世界に飛び込んでくる若者には、大丈夫だよって言ってあげたい。

そんなわけで、ぼくは努力というものを、いささか取り違えていたようだ。

いずれあの人の役に立つ、この人の期待に応える。
そのために、自らが変化することを惜しまない気持ちや姿勢そのものが、努力というものの正体なのだろうと、いまは思っている。それと、それを発揮させてくれる相手へのリスペクトと感謝。これである。

山を想って山に行かずの日々は、図らずも自分再構築の時間になった。

そう考えると、当面失った仕事の代わりに出来た膨大な空白の時間は自己の変化・変革の大きなチャンスだし、その小さな変化という努力によって、これから待ち受ける自分の未来そのものが大きく変化しはじめているのかもしれないのだ。そう思うと……ワクワクするでしょう?

奇しくも今日は、新月
変化を宣言したり、実際になにかを始めるには良い日である。

辛くなったら夜空を見上げてみよう。そんなのガラじゃねーし、と思っても騙されたと思って月夜を仰ぎ見てもらいたい。

そこには毎夜必ず変化してみせる月が、すっとした姿で美しく浮かんでいるだろう。月が満ち欠けするその変化の連続と循環とを眺めて、よし、おれも変わっていこう!と気持ちを奮い立たせるのだ。それができた瞬間から、あなたにも努力という変化が、始まっている。

……で、いま夜空を眺めてみたら、当たり前だけど、月はないww

*(2020.04.24 ちょっと改訂)

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