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加害者の「心は女性」が被害者に与えた影響を考える

裁判傍聴記(上)から続く

4.加害者の「心は女性」が被害者に与えた影響を考える

被害者は、「男性に見える」加害者を警戒しなかったのか

判決は、「『性自認』を偽り、マッサージ名目で犯行に及んだ手口は狡猾であり、繰り返している点から性的ゆがみがあるのは明らかだ。立場上優位であることを利用した点も強く非難されるべきだ」と断罪した。この3つの要因(①偽りの「性自認」 ②狡猾な手口と性的ゆがみ ③立場上の優位性)によって被害者を抵抗できない状態に追いやり犯行に及んだ、という指摘は重要で、どれが欠けても犯行は成立しなかった。その上で「心は女性」が与えた影響を考えてみたい。

「見たらわかるはず。『心は女性』を信じた女性がおかしい」という意見がSNSで見受けられたが、被害者たちは、被告人は男性だと認識しつつ、かつ半信半疑ながら「心は女性」とも思っていた。また「心は女性」を疑ってはいけないというプレッシャーもあって、身体が男性である被告人に対する警戒心を封じて、マッサージに応じたのだ。

「心は女性」と言うが男性に見える被告人を、疑ってはいけないと被害者は思った

NHKのEテレや朝日新聞、毎日新聞などの報道機関が「性別は男女の2つだけではない。4つの性~『体の性』『心の性』『好きになる性』『表現する性』がある」と視聴者や読者を洗脳しているのだから、被害者が被告人のことをそのような「『身体は男』だが『心は女』の人」だと思っても何ら不思議はない。また、「心の性」と「身体の性」が違う人は「性同一性障害(GID)」、つまり身体違和があって手術を希望する人だ、との認識も広がっている。そして、「生まれつき」持っている障害を批判すべきではないとの共通認識、いわゆる良識というものが社会にはある。知識人や弁護士、挙句の果ては最高裁までもが「間違った身体に生まれ、異性になりたい人」が存在していると認定し、それを広めているのだから、被害者が「心は女性」と言う男性を「間違った性別の身体に生まれた人だ」と思い込んで(あるいは半信半疑ながらそう思い込もうとして)、通常なら男性に向けて当然の警戒心を解いたことを批判するのは、不当な非難に当たるのではないか。もし、被告人のような人物に対して、まだ性被害が起こっていない段階で女性が警戒心をあらわにしたら、「トランス差別!」との誹りを免れ得ない現在の風潮なのだから、そのような批判はダブルバインド(二重拘束。二つの矛盾した命令を他人に与えている状態のこと。この例で言えば、被害前に警戒すれば「警戒するな。差別だ!」と言われ、被害後に声をあげれば「なぜ警戒しなかったんだ。なりすましだということは見たらわかるだろう」と非難されること)だと言える。

また、女性は、他人を怒らせないように、礼儀正しく、親切にするよう親から躾けられたり、社会から要請される。「マッサージしてあげる」と言ったのが親密な関係ではない男性だったらまだしも断りやすかっただろうが、被告人は仕事上の上司、力関係で被害者より上位の人間だ。「心は女性」と言う男性でなくても、力関係に差がある場合、抵抗することがより困難になるのは当然である。ましてや、「心は女性」と言う男性のマッサージの申し出を断ったら、相手を傷つけることになるのではないかと思って、たいていの女性は拒否できないと思う。

「心は女性」と言う男性による性加害の最大の問題点

「心は女性」と言う男性による性加害の最大の問題点は、「心は女性」と男性がアピールすることによって、「この男性は安全である。女性を性的対象にしない。性犯罪を犯さない。もし、女性の身体を触ってきてもそれは性的な欲望でしているのではないはずだ。普通の男性に対するのと同じように警戒したら、傷つけることになってしまう」というふうに女性に思わせることで、より簡単に男性が性加害できるという点である。男性的な性的欲望(注3)を女性に対して向けて行われた犯罪は、普通に男性による性暴力として裁かれるべきであるし、今回、そのように裁かれたと私たちは考えるが、「LGBT権利運動先進国」の欧米では、女性を自認すると性暴力加害男性の罪は、単なる男性と比べてより軽くなる傾向があるようである。全く理解できない。

注3:
男性は性的に乱交的であることを指している。つまり何の感情もわかない行きずりのセックスを男性は楽しめるということだ。女性には非常に難しいことであるが。

「男=加害者/女=被害者」だった「強姦罪」を、男女とも被害者加害者になりうる刑法に改正

性暴力に関する昔の刑法、「強姦罪」は、男性による女性への膣挿入を処罰するもので、基本的に被害者は女性、加害者は男性しかあり得なかった(強制わいせつ罪は違う)。改正された現行の「不同意性交等罪」は男性の性被害者、女性の性加害者をも想定した刑法だ。まさに、性暴力の被害・加害に男性も女性もない、ということである。だから同じ性加害行為をすれば、加害者が女性でも男性でも基本的に同じに裁かれるということだろう(おそらく無意識の、性別バイアスはあるだろうが(注3))。そこで、もし被告人が「心は女性だからこれは男性の犯罪ではない。女性の犯罪だから罪はより軽く裁かれるべきだ」などと主張したら、それはおかしいのだ。そもそもペニスがあり、男性の骨格と筋肉を持つ男性身体なのだから、頭の中で自分のことを女性だと思っていようがいまいが、肉体がしでかしたことに何の関係があろうか。単にその人物が実際に何をしたのかが問われるだけではないか。

「心は女性」と言う男性の方が、言わない男性より悪質である

むしろ、「心は女性」と言う男性による女性への性加害は、「心は女性」と言わない男性による性加害より、悪質ではないかと思う。金銭を騙し取られないと詐欺罪にならないらしいが、この場合「心は女性」と言って女性に性的に接触するのは、一種の詐欺というか騙しの手口だ。現在の新しい風潮である「身体は男性で心が女性の人も存在する」という考えを強制することによって、犯行に都合のいいように被害者をコントロールできてしまうからだ。神聖な儀式と称して行う宗教カルトの性暴力や、医療行為だと思い込ませて行う性暴力等に近いのではないだろうか。

一つ、アイデアがある。「心は女性」と言って男性が女性に性的行為を迫る事例を「不同意性交等罪」、「不同意わいせつ罪」でいうところの、「被害者が同意しない意思を形成、表明、全うすることが困難な状態」の類型に加えるのである。要するに、加害者が「心は女性」と言って性的行為をし、被害後、被害者が「実は不同意だった」と訴えたら、犯罪の要件を満たす、とするのである。そうすれば、加害者はトランスジェンダーのなりすましだとかそうではないとか、性自認を偽ったとか偽ってないとか、GIDの診断書を持っているとかいないとか、持っていてもどうせ30分の問診でGIDの診断が下りたんじゃないか、などといった話は、一切関係なくなる。加害者の言ったこと、やったことのみに焦点を当てればよい。「心は女性」と言ったことが客観的に立証できないといけないが、今回のような事件では加害者は複数人に「心は女性」と言って犯行を行っており、立証は難しくないように思われる。この場合、被告人のように自身の女装姿の写真を人に見せていることは、「『心は女性』と言ったこと」の傍証となるであろう。「犯罪を犯したらトランスジェンダーから排除するのか」だの、「トランスジェンダーを性犯罪者と同一視するな」などという話はお門違いである。性犯罪を犯した者が性犯罪者であり、被害者に「心は女だ」と言って、被害者を「同意しない意思を形成、表明、全うすることが困難な状態」に置いた上で、不同意の性交等やわいせつ行為を行うことが性犯罪なのである。

注3:
イギリスで、性犯罪の被告人に対する裁判官の判断について調べた人がいて、被害者が男性である場合と被害者が女性である場合とでは、被害者が男性の場合の方が、量刑が重かったということだった。裁判官が女性でも男性でもこの傾向は同じだったという。おそらく裁判官の意識の中に、男性の人生の方がより重要であるという考えがあるのではないかという話だ。加害者が女性である場合と加害者が男性である場合の、性別によるバイアスについての報告は聞いたことはない。

「心は女性」と言う男性による性加害は、なぜ増大しているのか

近年、日本でも「心は女性」と言う男性による性加害は、増大していると私たちは見ている。
その背景には、「手術をしないで戸籍変更したい」というトランスジェンダーの人々の運動によって、GID概念が改竄されたという事実がある。従来ならGIDの人が望んで性別移行手術を受けた結果、戸籍の性別変更ができたのに対し、男性が手術なしで社会的に女性として生活する権利があるとする新しい考えが、法的なお墨付きを得るようになったのである。2023年7月11日の最高裁判決、及び同年10月25日の最高裁決定により、身体違和はないが、戸籍性別を変更したいトランスジェンダーの要求、つまり自らの「性自認」で社会生活を送る権利が、限定的とはいえ認められた。

しかし、最高裁の判決や決定が出る前から、問題は懸念されていた。女性に性的関心のある「心は女性」の男性が、「性自認」を利用して公衆浴場の女性風呂に堂々と入り、男性の性的欲望を剥き出しにしたことを表明する事例が散見されていたのだ。本人のSNS発信によって知られることになったこれらの出来事は、検索して事例を集めればおそらく相当な数に及ぶものと推察される。

「心は女性」と言う、ゲイでない男性は、オートガイネフィリアという性的倒錯らしい

なぜこのようなことが起こるのかを理解するためには、性科学者の本を手がかりにするほかない。マイケル・ベイリー/著『クイーンになろうとする男』は、女性になろうとする男性を扱った稀有な著作である。
それを読めば、女性スペースに侵入して女性を性的に脅かす、「心は女性」の男性(ゲイ男性を除く)は、自分を女性だと思うことで性的興奮を覚えるオートガイネフィリアだと考えられるのである。オートガイネフィリアは、ほとんど男性にのみ発現する性的倒錯(そもそも性的倒錯そのものがほぼ男性に現れるのだが)だ。男性同性愛者(ゲイ)で女性に性別移行する人は子ども時代から女性的であるが、オートガイネフィリアは少年らしい少年時代を過ごし、「心は女性」と言い出すのは成人してから、多くの場合、妻子ある中年以降になってからである。その特徴は、共通して嘘をつくことだ。それは「自分は異性愛者ではなく同性愛者である(心が女性だから、女性が性的対象である自分はレズビアンである)」というものだ。彼らは、女性の服装をすることについて説明する時、性的要素があることを公的な場では否定する。そして、「男性の身体に閉じ込められた女性」というお決まりのストーリーを語るが、自分が女性としてどう感じているかという彼らの話を女性が聞けば、「心は女性」は嘘だとすぐわかるであろうと、ベイリーは言う。現実の女性とは全く異なるからだ。それは男性が脳内で想像を含らませた女性像(多くはポルノに影響された、性的対象としての女性)と言ってよい。オートガイネフィリアの男性は、男性としての社会化を経験し、性別を移行しても男性としての性的欲望と行動様式を持ち続けるのだが、「自分は異性愛者ではなく同性愛者である」と言って、公的には、異性として振る舞うことの性的要素を否定するのである。そして、男性から女性へ性別を移行したい男性のおそらく9割近くは、身体違和のない(GIDではない)トランスジェンダーであり、そのうち男性を性的対象にする人(男性同性愛者)を除けば、ほとんどがオートガイネフィリアであろうと推察される。

オートガイネフィリアだと本人が認めないので、世間はトランスジェンダーをGIDだと誤解する

大雑把に言えば、広い意味での「トランスジェンダー」の中に身体違和があるGIDも含まれるが、多くは身体違和のない人たちであり、狭い意味で「トランスジェンダー」と言えば、そのような「身体違和のない人」を指している。男性から女性に性別を変えたい人のうち、男性同性愛者以外はオートガイネフィリアと見てよいだろう。彼らは公的な場では自分の性別移行に性的要素があることを否定するから、彼らの話す内容にオートガイネフィリアという概念は決して出てこないし、オートガイネフィリアではないかと聞いても認めないのが普通だ。
しかし、世間一般では、GID当事者とトランスジェンダーの違いは理解されておらず、「心は女性」と語る男性に対して大多数が抱いているイメージは「身体違和に苦しむGID当事者であり、可哀そうな人」というものだ。だから、性別移行手術もしないで男性に見える人がいても、「たぶんそのうち性別移行手術をする人だろう」、あるいは「健康上の理由や経済的理由で手術したいけどできない人だろう」と多くの人は思っている。

高石市事件は、性的にゆがんだ一人の男性が起こした「単なる性犯罪」ではない

このような風潮がなかった時代に、男性から「自分の心は女性なんだ」と言われ、自身の女装写真を見せられたとしたら、即座に「変態か?」「気持ち悪い!」の一言で相手から距離を置くことができたと思う。しかし、今や時代が違うのだ。高石市事件を、たまたま「性的ゆがみのある」一個人が「『性自認』を偽って」起こした「単なる性犯罪だ」と済ませていいのだろうか。犯罪は常に時代を反映すると言われている。高石市事件の「実行犯」が被告人渡辺和美であることは間違いない。しかし、「性別」概念が混乱している時代背景が生み出した犯罪とも言えるのではないだろうか。おそらく、今後似たような犯罪は増えるだろう。海外の事件や日本国内でのネットの反応に見られるように、「心は女性」と言う男性の起こした性犯罪事件において、被害を受けた女性の方をバッシングしたり、不当に加害者を優遇したり量刑を軽くしたりするようなことはあってはならない。何か方法はないか考えていきたいと思う。

                             (終わり)


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