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ピストル打線のルーツ

大阪近鉄バファローズがオリックスブルーウェーブと合併し、球団が消滅してから20年近くが経つ。55年の歴史は、もはや書き継がれることはなくなってしまったが、Wikipediaの近鉄のページは今でも細かい部分で追記修正が行われているようだ。

その大阪近鉄バファローズのページには、1963年の項目にこう書かれている(2023年7月現在)。

長打力には乏しいものの単打や二塁打を重ねて得点をあげる攻撃に「ピストル打線」のあだ名がつく。

「球団の歴史 別当監督時代」(Wikipedia「大阪近鉄バファローズ」)

「1963年の近鉄バファローズ」のページにも

土井、ブルーム、小玉の3人が30二塁打以上、山本、関根、矢ノ浦も20二塁打以上を記録した中距離打線は「ピストル打線」の愛称で呼ばれるようになった。

Wikipedia「1963年の近鉄バファローズ

とある。この「ピストル打線」という言葉にはそれ自身のページも作られており、そこにも

初めて「ピストル打線」の愛称で呼ばれたのは、1963年の近鉄バファローズの打線である。

Wikipedia「ピストル打線

と書かれている。このようにWikipediaでは、「ピストル打線」の初出が1963年の近鉄打線であるという点で一致していることが分かる。

筆者はこれらのWikipediaの記事を記述編集したことは一切ないが、それでも、この1963年であることの根拠については、筆者が1997年に某所で書いた文章ではないかと思う。その一部を引用すると、

これに対して、貧打線の象徴として使われるのが「ピストル打線」という言葉である。現在でも、長距離打者が少なく、本塁打が出ない、もしくは適時打などが出ずに点がなかなか取れない打線のことをさして使われているが、その元祖と言うか、初めて使われたのは、1960年代前半の近鉄であった。
(略)
ピストル打線は、二塁打を中心とした中距離打線がその語源となっており、チーム浮上の原動力になるだけの打線であったわけである。

鈴木誠一「ピストル打線」(『ちょっとしたお話』)

こう記して、4位に浮上した1963年の近鉄打線について紹介したのである。

なぜこんな自意識過剰なことを唐突に表明したかというと、実はこの話が明確に誤りであることを、今の筆者は知っているからである。筆者は先の文章を自身の調査によって記述した。これと微細なところまで揃えた誤情報が、別々の人間から同じように発せられるという偶然は滅多にないだろう。

そんなわけで、筆者は誤った情報を記したこと、そしてそれが流布していることに対して謝らなければならないと思っているのである。そして懺悔かたがた、可能な限り正確なところを調べ、訂正をするために、本稿を書いているのである。

そもそも筆者がなぜこのような誤った文章を書いたかについては、記憶が定かでない部分もあるが、おそらく元にしたと思われる記事が一つある。

それは『週刊ベースボール』の1968年12月23日号で、記録の手帖特別シリーズとして「十二球団六八年の反省」という記事が掲載された。要するにシーズン振り返り記事の連載で、此号では近鉄バファローズがその対象であった。

1968年の近鉄の評価として付されたタイトルは「更に小型化した〝ピストル打線〟」であった。その本文に次のような一節がある。

かつて近鉄は「ピストル打線」の名を冠されたことがある。
だが、この「ピストル」小型は小型ながら、破壊力は秘めていたものである。
たとえば三十八年、本塁打は九十八本と、トップの南海の半分強にしか過ぎなかったが、打率は南海と同じ二割五分六厘で肩を並べたものである。
ところが、ことしは本塁打が八十四本と最低ならば、打率二割三分四厘もまた最低。ピストルはピストルでも、すっかり口径は小さくなってしまった。

千葉功「記録の手帖特別シリーズ 十二球団六八年の反省 近鉄バファローズ」(『週刊ベースボール』1968年12月23日号 p.84-86)

1968年の打線の不振を引くのに1963年の打線を引き合いに出しているわけである。筆者はここから、1963年の近鉄打線を調べ、チーム結成14年目で2度目の勝ち越しを記録した年であること、二塁打がリーグ最多であったことなどをもとに件の文章を書いたものだ。

だがこの記事には「ピストル打線」の名が1963年に「初めて」使われた、という情報はない。したがって、筆者が文を起こすに際して、なんらか他の情報を混ぜこんでしまったまま、誤ったことを書いてしまったのだと思う。その詳細については今も思い出すことができず、これは残念で申し訳ないことである。ここからは、確実に確認された事実を基にして筆を進めていきたい。

さてそれでは「ピストル打線」の名称が一体いつから使われ始めたのか、ということについてだが、確認できる限りでは概ね3つの説にまとめられるようである。

まず1つ目は、1955年(昭和30年)という説である。

1984年に発行された『日本プロ野球50年史』には、1955年の項に「近鉄は"ピストル打線"も思ったように稼働せず」とあり、1956年の項にも「"ピストル打線"の近鉄に」とある。また10年後の1994年に発行された『日本プロ野球60年史』でも、1955年の項に「『ピストル打線』といわれた近鉄は」とあり、1957年の選手写真に「近鉄打線は『ピストル打線』と呼ばれた。」というキャプションが付されている。いずれにしても、1955年に初めてピストル打線の表記が現れる。

実際、「ピストル打線」という言葉が用いられている最古の書籍は、確認した限りでは『ベースボール・マガジン』の1955年4月号である。大井廣介が「十四球団の新布陣展望」として近鉄に触れた中に、以下の記述がある。

武智はうるさい打者だが、それだからといって、武智が三番とは淋しい。ピストル打線と称しているが、プロであれば大砲の一門二門は備えるべきではないか。

大井廣介「十四球団の新布陣展望」(『ベースボール・マガジン』1955年4月号 p.180-185)

武智修は戦前からのプロ野球選手で1953年に広島から近鉄に移籍してきた。勝負強さに定評があり1951年とこの1955年は打率3割を記録したが、シーズン本塁打は1952年の6本が最多、この前年である1954年は5本で、しかも森下重好、多田文久三と並んでチーム最多タイだったから、大井の淋しさも理解できる。

この4月号のほか、7月号から12月号まで(8月号を除く)毎月誌面に「ピストル打線」の文字が現れるのが確認できる。また9月12日の『スポーツニッポン』紙には、11日の試合評として以下のように記述がある。

前日の勝利に味をしめた近鉄は、この日の第一戦もピストル転じてバズーカ砲打線の威力を見せて一気に東映を潰滅した。

スポーツニッポン大阪版 1955年9月12日号

この日の「バズーカ砲打線」は、大石雅昭が1本塁打2三塁打の大暴れ、原勝彦も適時三塁打を放つなど9安打ながら6-1と快勝していた。またその少し前の8月28日の『スポーツニッポン』紙にも以下のユーモア(読者投稿欄によくある一言風刺のようなもので、実際に応援団が発言したものではない)が確認できる。

へん! ピストル打線が聞いてあきれるよ、ウチがピストルなら南海は水鉄砲打線だよ - 近鉄応援団

スポーツニッポン大阪版 1955年8月28日号

ちなみに前日の近鉄は首位南海相手に6-2と快勝している。近鉄の8安打に対して南海は11安打、これで2点なら確かに水鉄砲の威力である。もっともこの日の第1試合では近鉄は12安打で6点を奪っているが、南海は1回から6回まで毎回得点を含む14点を21安打でたたき出している。とんだ水鉄砲打線もあったものだ。

いずれにしても、1955年にピストル打線の名称が一般に近鉄打線に対して使われていたこと、初出の年代がこれを下らないことは明らかである。だから例えば1962年に発行された『自由国民 事典版 特集 野球ルールと選手のすべて』には「ピストル打線」の解説として「昭和三十四年前後の近鉄打線につけられた名前。小玉、関根などがよく打ったが、」とあるが、非常に不正確と言える。

少し脇道にそれるが、実際にこの昭和34年、すなわち1959年頃に用いられたのは「猛牛打線」であった。この年千葉茂が監督に就任、千葉のニックネーム「猛牛」にあやかってチーム名もバファローに改められたところであり、千葉がキャンプの時に「打線は猛牛打線をつくりたい。」といったことが『週刊娯楽よみうり』の1959年2月27日号に掲載されている。

千葉が退陣した後チーム名はバファローズに代わったが、猛牛であることに変わりはないのでそのまま「猛牛打線」という呼び名で定着した。後に応援団が流すテーマ曲にも「豪打いてまえ猛牛打線」のフレーズがお馴染みとなっている。この呼び名が定着していく一方で、かつての「ピストル打線」は昭和50年代以降「いてまえ打線」に取って代わられていく。

そんな初代のキャッチフレーズ「ピストル打線」が1955年に使われていたことは分かったが、初出はさらに遡るという説がある。

それが2つ目の説で、これは前年の1954年である。この年は近鉄が結成5年目で初めて勝ち越し、Aクラスに入った記念の年である。『週刊ベースボール』1967年6月5日号には、当時十四年ぶりに首位に立った近鉄について、「話のダイヤモンド」欄で次のように書かれている。

二十九年の近鉄は大物は打てないが単打で得点するのでピストル打線の異名を付けられた。

「話のダイヤモンド」(『週刊ベースボール』1967年6月5日号 p.50)

これ以外に何か裏付けとなるものは今のところ特にない。ただし『ベースボール・マガジン』の1954年4月号で、小川武が「十四球団商店景気打診」なる各チームを商店になぞらえた寸評をする中で、大映スターズを指してこんなコメントがある。

姫野という日本人形も目下肘がこわれているとかで「投手人形」の品は欠けるが島田、坂本、滝田、飯島と続くピストル、鉄砲、機関銃のようなチヤンバラ玩具は充実している。

小川武「十四球団商店景気打診」(『ベースボール・マガジン』1954年4月号 p.84-87)

島田雄三と坂本文次郎は共に前年120試合全試合に出場してそれぞれ6本塁打と1本塁打、滝田も119試合で7本塁打、飯島は前年こそ本塁打0本だったが1952年には首位打者に輝いて13本塁打、それまでも25本、27本、18本と本塁打を放つ中距離打者だった。文脈から言っても、「ピストル、鉄砲、機関銃」が打力を表現する言葉として用いられているのは明らかであるし、当時協力打線の形容として知られたダイナマイトや水爆に比べれば少し割り引かれた打線という意味も込められているのではないかとも思われる。

これまた余談になるが、『週刊ベースボール』の1959年6月24日号の読者サロン欄には、各球団を評した「夏場にかけるペナントの橋」という読者投稿があり、近鉄の欄には「ピストル打線を機関銃打線に昇格、今シーズンは闘将と外人部隊を得て心機一転、その集中得点力の増加はめざましいかぎり。」という評が記されている。ピストルよりは機関銃のほうが打力が上という認識を持つファンがいたことを示しているが、機関銃とはすなわちマシンガンであり、これはいわば「マシンガン打線」の原型に当たる表現だということができる。むろん、1990年代後半の横浜打線を指した「マシンガン打線」とは全く連続性が見いだされず、直接のご先祖というわけではない。

少し話を戻してこの機関銃という単語、近鉄打線に対しても使われている例がある。『ベースボール・マガジン』1955年2月号では14球団の戦力評価記事があり、小川淸一が近鉄パールスを担当している。その中に次の一節がある。

芥田監督も昨年つくづく「うちがコツコツ機関銃で稼いでも、西鉄のように大砲を揃えたところは一発それを放たれると、折角のリードもたちまちひつくり返されてしまうのだからかなわん」と嘆いていた。機関銃の悲哀をいやという程味わっているのに、それにしてはなんという補強だろうか。

小川淸一「近鉄パールス」(『ベースボール・マガジン』1955年2月号 p.139-140)

芥田監督とは芥田武夫のことで、1952年に初代近鉄監督の藤田省三が今季限りで契約切れ辞任となった後監督に就任、その年9月24日の対南海ダブルヘッダー(シーズン最終戦)から指揮を取った。

1953年は1勝8敗1分けのスタートから4月に9連勝して「春の珍事」と呼ばれ、その後も調子を維持して5月には球団史上初の首位に立ち、これを3週間ばかりキープした。夏以降失速し結局最下位に終わったが、1954年には74勝63敗3分で8球団中4位、チーム史上初の勝ち越し、最下位脱出とAクラス入りを決めている。

単打でコツコツ稼ぐというとまさにピストル打線ということになるのだが、それを機関銃としたあたりは当事者たるチームの監督の見栄もあったかもしれない。一方でこういった表現をするのは、芥田の経歴とその素養による部分もあったのではないか、と筆者は考えている。

芥田は戦前早稲田大学の野球部に所属して東京六大学野球では初代首位打者となり主将も経験、卒業後は南満州鉄道に入って満州倶楽部の選手として全日本都市対抗野球大会でも優勝を経験した。

その後時事新報そして朝日新聞西部本社や大阪本社で記者から運動部長となり、全国中等学校優勝野球大会(現在のいわゆる「夏の甲子園」)復活に尽力した。近鉄監督就任の前年には朝日放送の野球解説者第1号になるという経歴で、プロ野球との関わりは記者時代と解説者時代のみ、直接プロ野球に携わるのはこの監督就任が最初であった。

こういう経歴を持つだけに、「ピストル打線」もあるいは記者経験のある芥田が作り出した言葉ではないか、と今回の調査を始めたときに筆者は想像していたものだった。

その、ズバリのことを記しているのが元報知新聞編集局次長でスポーツジャーナリストの田中茂光である。2001年11月に発行された『別冊宝島 伝説の打線』で、田中は「かつてこんな打線があった!」という紹介記事にピストル打線を取り上げている。

最後に、プロ野球にはチトふさわしくない打線を紹介しよう。つけられたネーミングは"ピストル打線"。いや、正確にいえば近鉄の監督に就任した芥田武夫が自ら言い出したもの。
昭和28年、大阪朝日新聞の運動部長から近鉄監督に就任した芥田武夫(早大OB)は、
「ウチには西鉄や毎日、南海のようなスラッガーはいない。しかしホームランはそう打てるものではない。ウチはピストルのように一発一発(シングルヒットで)つないで得点するんだ」
と抱負を語り、ここから"ピストル打線"が誕生する。

田中茂光「特集9伝説の打線①かつてこんな打線があった」(『別冊宝島614号 伝説の打線』 p.70-73)

ここにあるとおり1953年に芥田自身がピストルという単語を用いて、そこから「ピストル打線」が誕生したとする説で、すなわちこれが3つ目の1953年説である。

余談だが、同書では宇佐美徹也も「記録で振り返る〝打線〟」という記事でピストル打線に触れているが、「昭和38年に二塁打232本を打った近鉄…は、9年振りに勝ち数が負け数を上回り、5年連続最下位から4位に上がった。このときを記念(?)して『ピストル打線』なる異名がつけられた。」と二塁打に絡めた誤った説を紹介している。

さて、田中の説を補強する記述は他にもある。当時大映の監督だった藤本定義は1963年に『プロ野球風雪三十年の夢』の中で「単打主義が成功して善戦した近鉄には〝ピストル打線〟というニックネームがつけられ、」と記し、南海監督の鶴岡一人は1962年の『南海ホークスとともに』で「近鉄もピストル打線で、前半は暴れたので、オールスター戦ころまでは非常な混戦であった。」とし、どちらも1953年の出来事として記載されている。

それだけではない。当の芥田本人が実態を記したものがある。1981年に出版された自伝『わが熱球60年史』は、1978年から1980年にかけて週刊ベースボールに連載された「わが熱球60年をたどる」をまとめたものである。その中に、以下の記述がある。

シーズンはじめに近鉄が9連勝の好調を示し、球界をアッといわせた。新聞は「春の珍事」と大きな見出しで報道した。いまではよく使われる言葉であるが、当時は「新語」であった。
近鉄についてもう一つの新語が冠された。それは「ピストル打線」という言葉である。今でも使われているが、打てない代名詞のようにいわれている。私が長打力のない近鉄としては、相手のトーチカに肉迫して、ピストルで相手を倒すより方法はない。いわば機動力その他あらゆる方法で走者を進め、得点を得る、機動力重点の試合をするということが、ピストル打線となった。マスコミもいろいろの工夫をこらすものだと思ったし、そのときは多少のユーモアも感じた。

芥田武夫『わが熱球60年史』p.169

このように、これも1953年のこととして書かれている。何故ピストルか、という語源のところの経 緯も明らかにされるなど説得力もあり、当の本人がこう書くのならもうこれで決まり、というところであるが、一つ引っかかるのが最後の一節である。マスコミが工夫をこらすとは、マスコミ側が作者のようにも読めるし、「多少のユーモアも感じた」というのも他動的である。実はこの点についても、同書に記述がある。

私は社長就任と同時に、デイリースポーツの編集総務であった須古治に球団部長としてきてもらうことにした。(中略)須古治は私が昭和28年監督に就任した頃、近鉄球団担当記者で、その積極的な取材態度で私と関連を持っていた。自分でキャッチャーミットを持って、関根や武智投手などの球を捕球してみたりしていた。
近鉄球団の「ピストル打線」の新語を作ったのも彼だった。「近鉄には大砲という威力のある大物打ちがいないのでトーチカにしのびより、手榴弾やピストルで対抗しなければならないのが近鉄チームの戦法だ」といったことから、彼がこの新語を使ったのだが、その後ピストル打線という言葉は、打てない打線の代名詞となってしまった。須古治とはそうした古い仲間だったので、手助けを願った。

芥田武夫『わが熱球60年史』 p.239-240

つまり、芥田は「ピストル打線」の作者が須古治だと言うのである。須古は、『ベースボール・マガジン』1955年3月号に「須古治の珍形容」とて

ディリー・スポーツで一番よく書いているのが須古治だ。(中略)それだけあって実に達者だ。筆も早く、一面を埋める原稿など見ている間に書き上げる。だがその反面、多分にハッタリ性があり、(中略)珍妙な形容を使う。しかし読者の心理を巧みにつかむので、専門家にはともかく、一般の受けはよい。

球界散人「野球記者銘々伝(関西記者倶楽部の巻)」(『ベースボール・マガジン』1955年3月号 p.236-238)

という評を受けている記者であった。それだけに近鉄打線に「ピストル打線」と命名したというのも十分あり得ることだと考えられる。以上が1953年説の概要で、時期や経緯が示されるついでに作者についても具体的な候補が出てきたわけだ。

さてではいずれの説が正しいのか。一番具体的なのは最後の1953年説でその経緯もかなりはっきりしているだけに検証も可能そうなものであるが、1953年当時のデイリースポーツ紙は国立国会図書館にも収蔵がなく、一般に公開されているものがないため確認が困難である。

しかしここに、上述の経緯にかなり近い内容の記事がある。それは、1953年ではなく1955年2月18日付デイリースポーツの2面で、タイトルもズバリ「近鉄はピストル打線だ  宮崎キャンプ第一報」というものである。「切れ目なし」という一節には、

打撃練習は相変わらずの好打線で、これといって大物打ちもいないが切れ目のないのが特徴。「近鉄はピストル打線だ」という芥田監督の言葉通り鋭い打球が快音を残して飛ぶ。現在当たっているのは多田木村選手。「出れば打つ打つ」という一種おどけた掛け声が盛んに飛び交ってはりつめた空気を気にする。

デイリースポーツ大阪版 1955年2月18日号

とある。ここでは「ピストル打線」というのを芥田監督の言葉としているが、芥田が自著に書いたような経緯は記載されていない。芥田の示した意図が削ぎ落されて言葉だけが残っている様は、その言に従うならば須古の作であり、そしてこの記事の署名はまさしく須古治なのである。

その辺りの消息がもう少し詳しく現れた記事もある。この2月のデイリースポーツでは各球団のキャンプ紹介記事を毎日一面に掲載していたが、2月22日号は18日の第一報を一面の大半に詳報したものであり、執筆者はやはり須古である。

「近鉄はピストルだ。今年は白兵戦(混戦レース)が予想されるだけに、このピストルこそが威力を発揮するだろう。心臓めがけて射つ練習をやっているのだ」という芥田監督の言葉にすご味さえ感じられる。

デイリースポーツ大阪版 1955年2月22日号

とここでようやく芥田の発言が出てくる。何故ピストルなのかという点が説明されており、芥田の自著と比べると共通する単語は少ないが意図するところは非常によく似ていることがわかる。またピストル「打線」とはなるほど芥田の言とはなっておらず、「ピストル打線」という用語としては記事のタイトルや本文中に出てくるばかりである。芥田のいう、須古が「ピストル打線」の新語を作ったという事情がそのまま表現されているわけである。

したがってこれらの記事に従うならば、芥田が自著で記した内容は概ねそのとおりであったが、その「時期」だけは、春の珍事の話とは関係なく1955年のことではなかったか、という、新たな1955年初出説が成り立つであろう。

この説なら、大井がこの年4月号のベースボール・マガジンで「ピストル打線」の名称に触れたのも時期的に符合するし、前年までは確認されていない「ピストル打線」が1955年になって頻繁に登場するのが確認されることも納得がいく。

他の資料については、鶴岡や藤本の著書はいずれも10年ほど後に書かれたものであり、内容も正面からピストル打線を論じたものではなくあくまで形容として使われていること、1953年も1955年も芥田監督時代であり、いずれ短距離打線に変わりはなかったことで、その頃の用語が時期の幅を広げて流用されたもの、とすれば説明がつく。1954年説の週刊ベースボールも同様である。

田中の記述については、本人の取材記録に基づくものなら信憑性も増すところであるが、何分そこが分からないため判断が難しい。ただ気になる点は2つある。一つは芥田の発言として「ピストル」をシングルヒットの直喩として使っている点で、芥田本人の自著ではトーチカ攻略の武器として暗喩していることと食い違う。もう一つは「ピストルのように…つないで得点する」という抱負が「ピストル打線」に昇華する過程が芥田の自著に比べると欠けている点である。

これらの点を考えると、1953年説や1954年説はもう少し具体的な史料が新たに出てくることを待ちたいところであり、筆者としては以下のような「1955年初出説」を推したい。

1954年に4位に躍進した近鉄が次はどのような野球をやってくるか、と注目されていた1955年、宮崎キャンプにおいて芥田が須古の取材を受けた。その際、長距離砲のいない近鉄が白兵戦を戦うには相手のトーチカに迫ってピストルで対抗するよりない、と芥田が述べたのを、須古がデイリースポーツ紙上一語に作り上げたのが「ピストル打線」という言葉であった。

事実長打力に乏しい実情をよく示していたこの言葉は当たり、迫力のない打線を指して他所でも使われるようになった。これが、以後20年近くに渡って良くも悪くも近鉄打線の代名詞とされた「ピストル打線」のはじまりであった。

この結論を現時点の到達点とし、以って筆者の反省文としたい。

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