鈴木 誠一

鈴木 誠一

マガジン

  • プロ野球 記録は遠くなりにけり

    プロ野球の記録を時に掘り下げ時にほじくって、歴史に埋もれている選手を浮かび上がらせてゆきます。

最近の記事

幻のプロ野球選手 ―なぜ大友一朗は戦死したのか―

(おことわり) 資料の入手に伴い、一部を加筆修正しました。(2024.10.6) 初めてそのこと、大友一朗の戦死を筆者が知ったのがいつのことだったか、今となっては思い出せないが、あるいはそのきっかけは、小川勝の『幻の東京カッブス』だったかもしれない。小川は毎日新聞の記者で、第二次大戦後間もない時期にプロ野球への加盟を申請し認められなかった幻の球団「東京カッブス」と、その球団代表であり戦前のプロ野球にイーグルスというチームで理事として参加していた河野安通志とを通して、戦前戦後

    • 東京カッブスは否決されたのか

      筆者は今、『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社、1980年。以下『回顧録』と表記する。)という本に触れている。タイトルのとおり鈴木龍二による回顧録なわけだが、没後40年近く経っており、彼の名前を聞いても野球関係者だと分かるファンも、そろそろ少なくなりつつあるだろうか。 鈴木は昭和初期には新聞記者をしておりもともと野球とは無縁であったが、1936(昭和11)年のプロ野球(当時の職業野球)発足時に招かれて大東京軍の常務取締役となったのがきっかけで野球界に転じた。その後日

      • 落合博満のルーキーカード研究

        私は古い時代のプロ野球に興味を持っている。1997年頃から野球カードのコレクションを始めたのだが、ロッテファンであった私はロッテオリオンズ時代のカードを集めるようになった。 オリオンズ時代のカードの中でも人気の1枚に、1985年にカルビーが発行したカードの71番、落合博満のカードがある。カルビーのポテトチップスにおまけで付いてくる野球カードは有名であるが、1973年にスタートしたこの野球カードに正式にロッテの選手が登場したのは1985年が最初であり、そこまで登場しなかったの

        • ピストル打線のルーツ

          大阪近鉄バファローズがオリックスブルーウェーブと合併し、球団が消滅してから20年近くが経つ。55年の歴史は、もはや書き継がれることはなくなってしまったが、Wikipediaの近鉄のページは今でも細かい部分で追記修正が行われているようだ。 その大阪近鉄バファローズのページには、1963年の項目にこう書かれている(2023年7月現在)。 「1963年の近鉄バファローズ」のページにも とある。この「ピストル打線」という言葉にはそれ自身のページも作られており、そこにも と書か

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        • プロ野球 記録は遠くなりにけり
          16本

        記事

          クオリティ・ブルペンで評価したリリーフ投手

          前稿では、クオリティスタート(QS)にヒントを得て、クオリティブルペン(QB)とでも呼ぶべき指標を思いついた。これはリリーフ陣がどれだけ責任を果たしているかをQSと同等の基準で測るものだった。リリーフ陣をまとめて算定するため、チーム単位、年度単位での記録として紹介したが、あにはからんや投手起用法の歴史の概説になってしまった。 このQBはリリーフ陣全体、そして継投策を測る指標としてチームに付与された記録であるが、各試合に登板したリリーフ投手にこれを配分すれば、リリーフ投手個人

          クオリティ・ブルペンで評価したリリーフ投手

          クオリティ・ブルペン

          セイバーメトリクスなど、従来の記録項目とは一線を画す指標に関する知識が日本で広まったことについては、2004年頃が一つの画期であったと思う。 それは、貧乏球団がメジャーリーグを勝ち抜くために従来とは異なる指標で選手集めをし結果を残していくストーリーを描いた『マネーボール』が日本で出版されたのがこの2004年であった、というのが一つあり、同書で注目されたこの「従来とは異なる指標」での選手評価、という点が興味を引いたことが大きく影響したと思われる。 現在検索できる2ちゃんねる

          クオリティ・ブルペン

          ソウルソース

          「食べ物の恨みは恐ろしい」。一度は聞いたことがあるだろう。いや、一度は口にしたことがあるかもしれない。 一体何かを恨むということには、非常なエネルギーを必要とするものだ。なので何かを恨み続けるためにエネルギーを注ぎ続けることは、営まざるを得ない日々の生活がなかなか許してくれない。自然月日と共に恨む力は弱まり、やがて忘却の海に澱むことが多い。 なのに食べ物の恨みが恐ろしいというのは、それだけ食べ物が人に身近であって、大した恨みにならないからだろう。そのくせ、ふとしたきっかけ

          ソウルソース

          序にかえて

          筆者がプロ野球の記録にのめりこむきっかけになったのは、ファミコンなどの野球ゲームだった。V9時代の巨人と1985年の阪神の対戦ができた「ファミスタ'92」、過去の優勝メンバーにOBの名選手をちりばめた裏チームが12球団に設定された「スーパーファミスタ」、そして豊富な数の選手を裏技を使って自由度高く編集できるチームエディット機能の付いた「究極ハリキリスタジアムⅢ」。 これらのゲームを通じて、筆者はOBチームでプレイする楽しみに目覚めた。そのうちに「1985年の阪神に、ショート

          規定未満の名選手たち ~「率」の項目編~

          これまで、野手編と投手編に分けて規定未満の選手の中で好成績を残した選手たちを見てきた。規定到達者と比べても遜色のない数字を残している選手が結構いることが分かっていただけただろう。 ところで各稿で紹介してきた項目には、打率と防御率がなかった。この二つに限らず率で評価する記録は、値で評価する記録とはまた違う比較の難しさがある。少しくどくなるが、例を示しながら説明していこう。 例えば4打数2安打の選手がいたとする。シーズン日本記録をはるかに上回る打率.500である、といってこれ

          規定未満の名選手たち ~「率」の項目編~

          規定未満の好投手たち

          前稿「規定未満の強打者たち」に引き続き、記録として残りにくい規定未満の選手の記録について見ていく、その投手編である。野手編同様記録を調べていたのだが、その中で分かったことは、野手編と大きく異なる、ランキングに影響を及ぼす環境条件が2つある、ということである。 一つは、規定数の変遷である。現在は規定投球回数はチーム試合数と同じとなっているが、これが定着したのは1964年のことで(それ以後も引き分け制度に絡んで若干の出入りはある)、それ以前はチーム試合数の1.4倍から1.5倍程

          規定未満の好投手たち

          規定未満の強打者たち

          (おことわり) 続編「規定未満の好投手たち」に合わせて表題を一部変更しました。(2023.6.18) 2009年10月3日、日本ハム対ロッテ24回戦は2回を終わって8-0で日本ハムがリード、早くも楽勝ムードとなったところで、ロッテは3回から小野晋吾をマウンドに送った。この年の22試合全てが先発登板で、現に9月29日の西武対ロッテ22回戦では完投勝利を挙げていた小野の中3日でのリリーフ起用は、5位の決まっていたロッテとしては極めて異質だった。 小野はこの敗戦処理ともいうべき

          規定未満の強打者たち

          全球団からの達成者 投手編

          前稿の打者編に引き続き、その選手がプレーした期間に存在した全ての球団から記録をマークした選手の調査報告、今回は投手記録編である。 話を戻してさて、投手部門はまずは勝利から見るとしよう。といっても交流戦を除く達成者は3人だけ、野村、古賀、武田と既出でありいずれもよく話題にされている。ここでは惜しかったケースを中心に見ていく。 渡辺と江夏については前稿冒頭に述べたとおりだが、それ以外であと1球団届かずというのでは、緒方俊明の16球団中15球団、工藤公康の13球団中12球団が目

          全球団からの達成者 投手編

          全球団からの達成者 打者編

          1977年のオフ、渡辺秀武が大洋からロッテに移籍した。巨人、日拓・日本ハム、大洋と渡り歩く中で日拓・日本ハム以外の11球団から勝ち星を挙げていたので、残る日本ハムに勝てば全球団から勝利することになる、ということで話題となった。 その1978年は36試合に登板したが、11試合が日本ハム戦とはチームも記録達成に向けて後押しした。8月25日の後期10回戦では同点の8回裏に登板し9回表に1点勝ち越し、その裏を抑えれば勝利投手というところまで行ったが、気負ったか集中打を浴び無念のサヨ

          全球団からの達成者 打者編

          交代選手の猛打賞

          山崎晃大朗は、2019年6月13日の楽天対ヤクルト3回戦で、8回表の先頭打者に代打で起用された。1点を追いかける状況下では出塁が期待される中、見事応えてレフトにヒットを放つと、これを呼び水に打者一巡の猛攻で3点を挙げて逆転に成功した。そのままセンターの守備に入ると9回表の先頭打者も山崎となった。 ここでもセンターに安打を放つとこれを呼び水に、いや8回にも増しての猛攻で5得点して再び打者一巡、3回目の打席が回ってきた。ここで山崎はとどめの適時打をライトへ放った。3安打すなわち

          交代選手の猛打賞

          アテ馬出納簿

          アテ馬といっても若いプロ野球ファンにはもう通じないかもしれない。 まだ予告先発投手制度もなければ先発ローテーションも定着していなかった時代、相手チームの先発投手が読めない時に、当日登板予定のない投手や出場見込みのない控え選手を仮のスタメンに起用し、相手の先発投手が判明してから、右投手なら左打者、左投手なら右打者と本来の出場選手を送り込む、という作戦があった。この時スタメン起用された選手、つまり偵察メンバーのことを俗にアテ馬といった。 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』(以下『

          アテ馬出納簿

          数の三冠王・率の三冠王

          三冠王といえば「首位打者」「本塁打王」「打点王」というのは今更言うまでもない。このうち、本塁打と点は記録した数字で評価されるのに対して、打率は安打数ではなく率で評価される。 今更の話ではあるが、イチロー登場以来最多安打がタイトル化され、シーズン最多安打にも注目が集まるようになってきた昨今の状況を踏まえるならば、ひとつ三冠王も数値の記録だけで判断してはどうだろうか。そこでこういった「数の三冠王」を改めて調査したのが本稿である。 といっても本塁打と打点の二冠王でかつ最多安打者

          数の三冠王・率の三冠王