見出し画像

東京カッブスは否決されたのか

筆者は今、『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社、1980年。以下『回顧録』と表記する。)という本に触れている。タイトルのとおり鈴木龍二による回顧録なわけだが、没後40年近く経っており、彼の名前を聞いても野球関係者だと分かるファンも、そろそろ少なくなりつつあるだろうか。

鈴木は昭和初期には新聞記者をしておりもともと野球とは無縁であったが、1936(昭和11)年のプロ野球(当時の職業野球)発足時に招かれて大東京軍の常務取締役となったのがきっかけで野球界に転じた。その後日本野球連盟の仕事にも携わるようになり、1941(昭和16)年からは事務長代行として連盟専任となった。以後連盟の専務理事として戦前の職業野球の事業面を主導、戦後はプロ野球復活に際して連盟会長となり、二リーグ分立後の1952(昭和27)年からはセリーグ会長を1984(昭和59)年まで務めた。

『回顧録』は鈴木の記憶を中心に綴られたもので、1980(昭和55)年に出版された。戦前戦中戦後の日本プロ野球の中枢に深く携わったその経歴から、当時のプロ野球史を研究する上での貴重な証言資料になるものである。本来ならば。

残念なことに、同書には事実関係の誤りが多いということが昔から指摘されている。鈴木の記憶・発言をそのままに収録したものととみえ、鈴木の手元にあったであろう資料は別として、あまり他の資料類との突き合わせをしていないようである。そのため、一定の事実には沿っているものの時系列や関係性など一部分がおかしい、という正誤が混濁した記述がしばしば見受けられる。貴重な事実を数多く伝えながらも、その内容は鵜呑みにできずちゃんと検証して採否を判断する必要があるという、厄介な資料なのである。

このことはWikipediaにおける鈴木の記事においてさえ注記されている。

1980年に刊行した『鈴木龍二回顧録』は、特に戦前の草創期から戦後にかけての日本プロ野球界に関する貴重な証言であるが、事実とは異なる記述も含まれており、内容の扱いに当たっては慎重を要する。

Wikipedia「鈴木龍二」、2023年10月31日閲覧

またその具体例の一つとして、次のような例も挙げられている。

事実と異なる例としては、1945年に東京カッブスが連盟に提出したプロ野球への加盟申請を「否決した」と審査にかけたように記しているが、実際には審査にかけることなく却下したことがわかっている。

Wikipedia「鈴木龍二」、2023年10月31日閲覧

ここにある東京カッブスというチームは、第二次世界大戦後のプロ野球再開に際して加盟に名乗りを上げたものの、結局加盟を認められなかったチームである。その東京カッブスの記事にも、同様のことが書いてある。

しかしこの加盟申請は、当時の東京巨人軍球団代表市岡忠男の強硬な反対に遭う。1943年、プロ野球自体はまだ続いていたにも拘らず河野は大和軍を自主的に解散した、ということがその理由だった。球界の中心的存在だった巨人軍の反対のため、カッブスの加盟申請は正式な審査にかけられることもなく却下されてしまう。

Wikipedia「東京カッブス」、2023年10月31日閲覧

ここに出てくる巨人軍代表、市岡忠男の記事でも同様である。

河野が戦時下に解散した大和軍の後継球団として東京カッブスの加盟を申請すると、市岡は「(河野は)自ら進んで大和軍を解散したのだから」と猛反発し、他球団のあずかり知らぬところで申請を潰してしまった。

Wikipedia「市岡忠男」、2023年10月31日閲覧

この両記事に出てくる河野こそ、戦前にイーグルスの代表理事であった河野安通志であり、彼は1943(昭和18)年に戦況を鑑みて大和軍と改称していたそのチームを解散し、終戦後改めて新規チームとして東京カッブスの加盟申請をしたのである。その河野の記事でも、加盟申請後の状況については次のような経緯とされている。

このため鈴木は正式な加盟審査に掛けることなく、申請を握りつぶした。鈴木は著書『プロ野球と共に五十年(上)』で「否決されてしまった」と審査に掛けたかのように書いているが、実際には他球団のオーナーは申請の存在を知らされておらず、巨人の意向がそのまま通った形になった。

Wikipedia「河野安通志」、2023年10月31日閲覧

ここに出てくる『プロ野球と共に五十年(上)』(以下『五十年』と表記する。)は『回顧録』の改訂新書版で、収録の都合上一部の話が省略されているものの、事実の訂正や追加などの大幅な書き換えは行われておらず、少なくとも本稿に関する部分については、両者はほぼ共通のテキストを持っている。

というわけで、加盟審査に関係するこれらすべての記事で、鈴木が『回顧録』や『五十年』に書いたような加盟申請を否決するシーンは誤りで、審査にかけられることなく握りつぶされたのが事実である、というあらすじで統一されている。

これらの記事にはこのあらすじの出典となる文献類が明示されていないが、鈴木以外の3記事に共通している参考文献として、小川勝『幻の東京カッブス』(毎日新聞社、1996年)が挙げられる。同書の139ページには「『東京カッブス』の加盟問題は、各球団の代表者が集まった公式の会議では検討されなかった」と明言されている。そしてその根拠として小川は二つのことを挙げている。

一つは、加盟申請当時に阪急の球団代表として連盟のすべての会議に出席した村上実の証言である。毎日新聞社の記者であった小川が、当時八十歳を過ぎていた村上に東京カッブスの加盟に関する話について取材したところ、村上は、当時の連盟での会議にその話は出てこなかったと証言したという。

本来新球団の加盟に関して審議する場である理事会の当事者であった村上の証言であるだけに、小川も「『東京カッブス』の加盟問題を、公式の議題として会議で取り上げられていないことは、村上実の証言ではっきりしている」(142ページ)と断言している。またWikipediaに「他球団のあずかり知らぬところ」(市岡の記事)「他球団のオーナーは申請の存在を知らされておらず」(河野の記事)と書かれている部分も、このことを指すのだろう。

もう一つ小川は、『五十年』と佐藤光房の『もうひとつのプロ野球 山本栄一郎の数奇な生涯』にある鈴木の記載や発言を総合的に判断した結果、河野の加盟申請に対して、鈴木はまず市岡にお伺いを立てたが、河野と仲の悪かった市岡は頑として首を縦に振らなかった、つまり「鈴木は、市岡一人の反対によって『東京カッブス』の加盟を却下」(141ページ)した、ということを挙げている。

鈴木は公式な会議だけでなく、料亭での会談や一部の球団代表らとの相談だけで物事を決めてしまうこともしばしばあったという。市岡の強固な反対意見を聞いた鈴木は、これでは会議にかけても加盟申請が認められることはないと判断し、そのまま闇に葬った、というものである。

これらの根拠を基にした小川の主張を受けて、Wikipediaの指摘も執筆されているのであろう。少なくとも筆者はそれ以外の文献を見つけることができなかった。

ところでWikipediaの河野の記事には、次の一節も記載されている。

河野はまもなく死去したため、正式な却下の報せを受けていたかもわからないという(記録上は、河野の死の直後である1946年(昭和21年)1月22日の緊急理事会で却下)

Wikipedia「河野安通志」、2023年10月31日閲覧

河野は1946(昭和21)年1月12日に亡くなっている。そのため却下の知らせを受けたかどうかも確認できない、というわけだ(この前段は小川の著書でも触れられている)が、後段にある「緊急理事会」というのは、加盟申請の可否を判断するような理事会である以上、申請を受けた日本野球連盟の理事会としか考えられない。「却下」は当然加盟申請の却下を示しているので、後段の文章を素直に読めば、連盟の緊急理事会で「正式」に却下が決定された、すなわち否決された、と解釈できる。

小川の主張に基づきここまで「審査にかけてない」「公式の会議では検討されなかった」としてきたことと、一見矛盾するように感じられるのだが、これはどういうことだろうか。

この後段の一節にはもう一つ「記録上は」とある。つまりこの却下に関する記録が残されている、という事実を示唆しているが、この「記録」とは、おそらく『回顧録』に収録されている「緊急理事会」の会議録を指していると考えられる(『五十年』では紙幅の関係上収載されていない)。それによると開催日はまさに1946(昭和21)年1月22日であり、議事の内容として次のように記されている。

(3)東京カップ加盟問題 東京カップの連盟加盟申込書類の発表有り、其の内容に関し専務理事より説明あり、討議に入る。その結果先に申込みのあった金星軍が加盟条件を完了したる場合は一応東西加盟八チームを以て打切り東京カップの加盟を拒絶することに議決。

鈴木龍二『鈴木龍二回顧録』、375ページ、1980年

専務理事とは鈴木龍二のことであり、この「東京カップ」が東京カッブスのことを指すのは文脈からも明らかだ。ここではっきりと会議録に、金星軍が加盟した場合(事実この後加盟が成る)は東京カッブスの加盟を拒絶するとの議決が明記されているわけである。

鈴木は『回顧録』において、東京カッブスの加盟申請が「否決」されたことを二か所にわたり書いている。他にも会議録中の議題から「アマチュア試合選手出場に関する件」という部分を引いて、当時の連盟の考え方について叙述していることからも、鈴木がこの会議録を実際の会議の内容が反映されたものと認識して文章を書いていることが窺える。

この会議録の冒頭には緊急理事会の出席者が記されているが、そこには村上の名前も明記されている。会議録の冒頭に出席者を記載する形式は、例えば前年10月25日に開かれた関西野球連盟主脳部会議で作成された議事録でも同様の書き方である。

実際に村上は緊急理事会に出席していたのであろう。とすれば村上は会議録の内容を承知していたと考えるのが自然であり、村上自身の証言と食い違いが生じていることになる。その村上の証言についても、実は東京カッブスの議題が村上の記憶から消えていただけで、実際に議題として会議にかけられていた、という可能性も検討しなければならないのである。

小川は執筆に当たり『回顧録』ではなく『五十年』をおよそ引用している。当時『回顧録』は入手もアクセスもしづらい資料であったということもあり、それでも問題なしと考えたのだろう。実際、本稿で扱う部分に限れば両書の記述は一致している。だがそのために、肝心の会議録を確認する機会を小川は失ってしまった。

やむを得ないと言えなくもないが、引用だけならまだしも、小川は自身の取材と食い違う『五十年』の記述を否定し、鈴木の行動を批判する主張をしたわけである。ならば『五十年』への改訂にあたり自身の主張がひっくり返されるような材料が省略されていなかったかどうか、原典となる『回顧録』の内容も確認すべきであった。

仮に会議録の内容を知っていたならば、その内容を日本野球機構などに確認してみたり、あるいは村上の証言に対して、会議録の内容を示して問い返すこともできたであろう。せっかくの貴重な取材の機会をみすみす失ってしまったのは、大変残念なことである。

小川の資料に対する扱いの拙さはこれだけではない。小川は『五十年』の様々な章の記述を下敷きにして書いたとみられる。例えば87ページには、1943(昭和18)年の東西対抗戦6試合に触れる中で、野手ながら1試合に完投した大友一朗の名前を挙げて、この試合を最後に入営して戦死した、としている。この話は『五十年』の173ページに記載された大友の話を下敷きにしていると断言できる。

なぜ断言できるのか。それは、『五十年』のこの話が明らかな誤りだからである。詳細は拙稿「幻のプロ野球選手 ―なぜ大友一朗は戦死したのか―」に譲るが、大友のエピソードは元になる話に大量の尾ひれがついており、端的に指摘するならば、そもそも大友一朗なる選手は存在しておらず、戦死もしていないからである。

本稿の発端は『鈴木龍二回顧録』に誤りが多く検証が必要であるという話であり、それはこの大友の件からも明らかである。しかるに、その名前から経歴までごっそり誤っている『五十年』の大友の話を、小川は何ら検証することなくそのまま自著に採用しているのである。

また別の方面から考えてみよう。仮に小川の取材による村上の発言を真として採るならば、これと矛盾する『回顧録』の会議録は鈴木の記憶に沿うように改ざんされたのではないかという疑いが生じる。大友の話のように個別のエピソード程度であれば、あるいは鈴木の記憶違いとして済ませられるかもしれないが、収載された資料に改ざんが疑われるとなれば、『回顧録』そして『五十年』全体の信頼性を揺るがす根本的な問題となる。

にもかかわらず小川は『五十年』の大友の話を無批判に採用していることになってしまう。このことからも、小川の資料の扱いは非常に拙いものであると言わざるを得ない。

以上のことから筆者は、小川の著書だけを典拠として「東京カッブスの加盟申請は審議にかけられることなく却下された」と主張することは、甚だ根拠に欠けるものだと判断している。もちろん当事者である村上の発言は重要であり、逆に「確かに審議にかけられた」と断言することもできないとも考えてはいるのだが、小川が村上の発言や『五十年』の内容について適切な検証を行わないまま主張を組み立てている以上、鵜呑みにすることはできない。

問題のある資料を扱うならば、可能な限り検証を行って正確な部分を抽出し、間違った部分については捨て去るかまたはさらに分析を加えて「使える」部分を見出さなければならない。それを無批判に採用することは、元資料の持つ問題性を引き継ぐだけでなく、取り扱ったものの信頼性まで失わせることになる。フィクションならともかく、事実を認定したり主張を行おうというのであれば、ここを疎かにしてはいけないということである。

小川の著書については筆者はこのように判断しているのだが、小川の著書以外で鈴木の議事録を裏付ける、あるいは否定する資料が存在すれば、東京カッブスの加盟問題についてより正確な知見が得られるだろう。そういった資料を確認できないことは筆者の限界であり、それらをご存知の方がおられるならば、ぜひご教示にあずかりたいと思っている。皆様のご協力を、お願い申し上げます。


本稿は当初の内容を改訂し、筆者の主張を一部取り下げている。これは筆者が小川の書を誤読していたことが原因である。50ページに、小川は「鈴木龍二は、回顧録の中で次のように語っている」と記している。この「回顧録」を『鈴木龍二回顧録』のことであると誤読してしまったのだが、その少し後に「鈴木の『プロ野球と共に五十年』は詳細で優れた回顧録だが」という記述がある事から、この「回顧録」は『五十年』を指していると考えられる。筆者がこのことに気づいたのは初稿執筆から1年近く経過した日の事であった。

そのため当初の本稿では、小川は『回顧録』を読んだうえで記述しているのだろう、したがって『回顧録』所収の会議録についても知っているはずだ、と判断して論を建てたのであるが、小川は『回顧録』には当たらず『五十年』の記述のみで同書を書いたと考えられるのであった。実際小川が『回顧録』に当たっていたならば、『五十年』のことを指して「回顧録」と記すようなことはしなかったであろう、ということは、ここまでの文章を解読された読者には身をもってご理解いただけるものと思う。

以上のような事情で、筆者の誤読に基づいて小川が「資料を恣意的に取捨選択」していると指摘したことは誤りであった。この点については深くお詫び申し上げる。ただしこれをお詫びしてなお、本稿の最終的な結論は変わらないことから、筆者が誤った箇所を修正して改めて公開するものである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?