幻のプロ野球選手 ―なぜ大友一朗は戦死したのか―
(おことわり)
資料の入手に伴い、一部を加筆修正しました。(2024.10.6)
初めてそのこと、大友一朗の戦死を筆者が知ったのがいつのことだったか、今となっては思い出せないが、あるいはそのきっかけは、小川勝の『幻の東京カッブス』だったかもしれない。小川は毎日新聞の記者で、第二次大戦後間もない時期にプロ野球への加盟を申請し認められなかった幻の球団「東京カッブス」と、その球団代表であり戦前のプロ野球にイーグルスというチームで理事として参加していた河野安通志とを通して、戦前戦後の職業野球の状況を自身の取材も交えて記した書である。この本の87ページには、次のような記述がある。
内野手が本職ではない投手としてマウンドに上がることを希望して完投していったというのは、どういう理由のものかわからない。あるいは今後二度と野球ができないかもしれない、という出征の覚悟がそうさせたのだろうか。戦争の厳しさを伝えたいエピソードなのであろうが、これを読んだ時の筆者は「なんとなく」そういったことがあったのだ、くらいの認識であった、と思う。今となってはむしろ、きっかけを思い出せないほどに「なんとなく」知ったことが、かえって良かったのかもしれない。
それから年月が経ち、筆者が戦後間もない時期のプロ野球の記録を調べていた時、ふと大友の名前を見つけた。そこに記された大友のシーズン成績を見ると、1948(昭和23)年までプレーして、戦後3年間で277試合に出場している。その時、「大友は戦死していたはず…」という「なんとなく」の認識が蘇ってきた。戦死したはずの野球選手が戦後もプレーしていた、それが1試合あっても十分な謎なのに、277試合の公式記録ではさすがに矛盾が過ぎる。
だがよく見ると、この戦後もプレーしていた選手は「大友一明」という名前である。『幻の東京カッブス』に出てきた「大友一朗」とは一文字違い、よく似た名前の選手もいたものだなぁ、と思った。ではその戦死した大友の成績がどうであったか改めて調べてみると、これが全く記録に残っていない。記録にないどころか、そもそもプロ野球に在籍しプレーした痕跡が一つもないのである。もちろん、1943(昭和18)年の東西対抗6試合のスコアを見ても、登板した投手の中に大友の名前はなかった。
そもそも東西対抗は、原則としてシーズン終了後の11月から12月にかけて、その年の優秀選手が東西両軍に選抜編成されて出場するという開催方式である。同年は太平洋戦争の真っただ中、シーズン中の試合前には手りゅう弾投げのアトラクションをやった位である。野球の試合に昨今のオールスターのようなお祭り気分を演出できるような時代ではない。つまり、野手が本職でもない投手として登板するようなことは考えられない真剣勝負の場だったのである。
実在しないプロ野球選手のエピソード。これでは『幻の東京カッブス』ならぬ『幻の大友一朗』である。
一体、これはどういうことだろうか。
小川は何を元にして、実在しないプロ野球選手大友一朗の戦死を記したのだろうか。
この時はそこまでの理解で疑問も解けないままだったのだが、しばらくして筆者が読んだ本の中に「幻の大友一朗」が出てきた。
この「ぼく」たるところの「鈴木さん」とは鈴木龍二のことであり、引用したのは筆者が読んだ鈴木の著書『プロ野球とともに五十年 私のプロ野球回顧録』の一節である。本書は『幻の東京カッブス』に先立つこと12年、1984(昭和59)年の発行である。
ここに出てくる大友一朗の新たな特徴である「一度帰還して」「浜松市に近い島田商業の出身」、そして小川が書いた「二十八歳」「内野手」という特徴(鈴木の書にはこの年の東西対抗の出場メンバー一覧があり、そこに出身校も年齢もポジションも記載があるから、小川はそこから採ったのだろう)は、いずれも実在の大友一明のものとほぼ一致する(年齢は27歳であった)。またこの東西対抗において、大友一明がいた西軍で9回を投げ切った投手は若林忠志と戦死した三輪だけである。
したがって、鈴木はおそらく三輪八郎の件と大友一明の話を混同し、そのキメラが大友一朗として現れたものと考えられる。小川がこれらの事情を検証せぬまま自著に引いたことは、両者の記述を比較すれば明らかであろう。
鈴木龍二は、戦前国民新聞の記者をしていたが社会部長を最後に退社、その後国民新聞社がプロ野球に参入するに当たり球団役員として呼ばれるまで、野球にはほとんど関心がなかった。ところが球団経営に携わる中で1941(昭和16)年には日本野球連盟の事務長に転身、専務理事から戦後は会長となってプロ野球の復興を陣頭指揮、1952(昭和27)年から1984(昭和59)年までセリーグの会長を務めた。
プロ野球の中枢部に長くあった経歴から、その証言は多くの歴史的事実を伝えるものとして重要視されている。しかし、鈴木の記憶違いなどにより、その著書には事実と異なる記述が多くみられることも確かである。具体的に指摘した文献を筆者はすぐには示せないが、筆者はその指摘をこの本に触れる前から知識として持っていたから、同書によらず鈴木が書いたものには事実確認に注意を要するということは、これまでしばしば指摘されてきたようである。
鈴木は、どこで大友一明の話を混同してしまったのか。これを紐解くには鈴木の証言や著書を調べるしかない。ただ鈴木の代表的著書とも言うべき『鈴木龍二回顧録』は1980(昭和55)年に出版されているが、そこに書かれているのは『プロ野球とともに五十年』とほぼ同じ内容である。実のところ後者は前者の抄録本であるから当然といえば当然であり、したがって前者は大友一朗の戦死が書かれた初出ということが言える程度である。
この13年前、1967(昭和42)年に行われた『週刊ベースボール』の座談会で、鈴木は大友一明のエピソードを披露している。
4月3日号に掲載されたこの鈴木の証言は、三輪と大友を混同するより前の認識を示した貴重なものであり、見てのとおり中身が少し異なっている。まず、大友が投げたのが東西対抗ではなく正月野球となっている。また鈴木が大友が死んでいることを認識しているのは確かだが、これを戦死とする記述はなく、そもそも「死んだ大友」だけでは、戦後にどこかで死んだことを伝え聞いたものか、あるいは既に戦死と誤認していたのか、細かいところは判然としない。さらにはそもそもの話の主題も、登板、出征、戦死という流れの悲劇性ではなく、応召を前にして酒を飲んででも堂々と投げる気魄というところに重点が置かれている。
「(一明・島田商)」というのは週刊ベースボールの編集側の註だから鈴木の認識としては不明であるが、少なくともこの座談会と『鈴木龍二回顧録』との間に、正月野球が東西対抗に変わり死因が戦死に確定したことで、エピソードが戦死した「幻の大友一朗」に昇華したことが伺える。
ここからもう一段、鈴木の認識の変遷を遡ってみよう。1956(昭和31)年に鈴木が著した『プロ野球・こんなこと』では、次のように記している。
少し長いが、大友のエピソードは先の座談会の内容と大きく変わりはない。新たな情報としては5回まで投げたという点で、これが5回まで投げて交代したという意味か、空襲警報の試合に完投したのかははっきりとしない。この「空襲警報で中断した正月野球」という情報は、1945(昭和20)年の状況と一致する。この年の正月野球については当時大阪帝大付属医学専門部の学生だった伊藤利清が残したスコアカードが現存していることから試合の詳細が分かるのだが、1月3日の試合では5回裏に警戒警報が発令され、そのまま試合が中止となったことが確認できる。
東西対抗ではなく正月野球、出征までは事実だが戦死ではない、と認識の変化を紐解いていけば、なるほど話の矛盾は解消される。当時そのようなことがあったとしても辻褄は合ってくるのだが、ここに落とし穴がある。実はこの引用した部分には正確な事実以上に間違いが多いのである。
「ライオン軍の大友」とあるが、当時既に朝日軍と名前が変わっていた。また「三日間」とあるが実際には元旦から4日間であり、「南海」の選手は出場しておらず、代わりに朝日軍の選手と、関西にいた産業軍の選手が主なメンバーだった。「西宮」でも試合をしたが実際は甲子園と一日おきの開催であり、空襲警報が発令された3日の試合も甲子園での開催だった。そして「川西工場への爆撃」が行われたのは、実に6月のことである。
それでもこれらは全て他愛のないものだ。最大の間違いは、この年の正月野球に大友は出場していないことである。そもそも前年の1944(昭和19)年の時点で、登録選手の一覧から大友の名前は消えているのである。つまり昭和31年の時点で、大友のエピソードは既に誤った情報が混ざり込んだ形で鈴木に認識されていたのである。
以上が、文献に現れた鈴木自身の認識の変遷と事実関係の検証である。鈴木の認識が昭和31年の時点で既に誤りを含んでいたことは確実だが、以後連綿と形を変えつつも「大友のエピソード」という骨格の部分は鈴木の記憶の中に生き続けていたこともまた確かである。そこにはベースとなる何らかの事実があるはずだ。
『プロ野球・こんなこと』で、鈴木は「試合も、なかなかに面白いものだった」とその場にいたかのような感想を述べている。昭和20年1月前後、鈴木は日本野球連盟(当時の名称は日本野球報国会)の機能停止に伴う後処理を東京で済ませ、箱根の疎開先に引っ込んでいた。正確にいつ箱根に引っ込んだかは定かでないが、空襲が激しくなり、長距離移動もままならなくなってきた当時の交通規制を踏まえると、昭和20年の1月に関西の正月大会を鈴木が観戦しに来ていたとは考えにくい。
それでも鈴木の感想を信じるならば、それは昭和20年よりもっと前の話なのではないか。そう思ってよく読み返すと、今回引用した文章がある章は、昭和18年から昭和20年にかけての話が混然としている。大友一明が昭和19年には既に選手登録されていなかったことは先述したが、前年までは確かにプレーしている。とすれば、鈴木の記憶に合致しそうなのは昭和19年の正月野球ではないだろうか。
そこで実際に当時の野球雑誌を紐解くと、1月3日の阪急対朝日の試合で、確かに大友が投手として先発しているのである。
この昭和19年の正月野球は、1月1日から6日間の日程で行われ、阪神、南海、阪急、朝日の総当たり2回戦制であった。また大友は3日の試合で7回途中まで投げているだけでなく、実のところ4日からの3試合にも本職の二塁手として出場している。
このように正月大会での大友のプレーぶりは鈴木の記憶とはまた随分異なるのだが、核となる「正月野球の三日目に大友が先発した」という部分については、まず間違いなくこの日の登板こそが記憶の根拠であったと言えよう。
登板翌日ではなかったにせよ、正月大会全日程に出場した大友がこの大会を最後に出征した可能性は確かにある。ただし前日2日の晩に「明日は投げるから」と酒を飲んだエピソードは、大友のエピソードであったかどうかは疑わしい。というのは、大友の登板が出征に伴う志願のマウンドだったか否か以前の別の事情があったからである。
昭和18年のシーズン、朝日は球団史上初の勝ち越しを記録したが、朝日のマウンドに登った投手は林安夫、真田重蔵、内藤幸三の3人だけ、それで3位に食い込んだのだ。このうち林と真田がオフに応召し残る投手は内藤1人、しかも風邪を引いたとあって、内藤が正月野球に登板したのはようやく4日の4試合目であった。それまでの3試合、朝日は本職の投手がいなかったため野手を順番に登板させざるを得ず、元旦は三塁の中谷順次、2日は遊撃の酒沢政夫が先発完投していた。3日に二塁の大友が先発したのは、大友ひとりの事情以前に苦しいチーム事情の裏返しでもあったのだ。
鈴木は昭和19年1月の正月野球で朝日が野手を登板させる苦しい状況、そして大友が登板したことを記憶していたのであろう。時が経つにつれ、その時期、覚悟の酒、投球内容、出征後の生死、さらには選手の名前まで記憶が改変されてゆき、最後に残されたのが「幻の大友一朗」の逸話だったわけである。
鈴木の著書には事実と異なる記述が多くみられる、という問題に対して、その「記憶違い」がどのような変遷を経て出来上がっていったのかを明らかにすることが、鈴木の著書を用いるときの問題点の再認識につながり、史料批判を行う上での一助となるのであれば、筆者の幸甚とするところである。
参考文献(本稿に明示なきもののみ)
関三穂編『戦後プロ野球史発掘(3)』、恒文社、1975年
関三穂編『プロ野球史再発掘(5)』、ベースボール・マガジン社、1987年
山室寛之『背番号なし 戦闘帽の野球 戦時下の日本野球史 1936-1946』、ベースボール・マガジン社、2016年
『体育週報』第537号、1944年3月21日発行
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