交代選手の猛打賞
山崎晃大朗は、2019年6月13日の楽天対ヤクルト3回戦で、8回表の先頭打者に代打で起用された。1点を追いかける状況下では出塁が期待される中、見事応えてレフトにヒットを放つと、これを呼び水に打者一巡の猛攻で3点を挙げて逆転に成功した。そのままセンターの守備に入ると9回表の先頭打者も山崎となった。
ここでもセンターに安打を放つとこれを呼び水に、いや8回にも増しての猛攻で5得点して再び打者一巡、3回目の打席が回ってきた。ここで山崎はとどめの適時打をライトへ放った。3安打すなわち猛打賞を達成するに要したのはわずか2イニング、アウトカウントにして1回2/3の間のできごとであった。
話変わってJリーグでは、2001年7月14日にセレッソ大阪の眞中靖夫がマークした最短ハットトリック記録がある。眞中は1ゴール目を決めてからわずか1分後に2ゴール目、さらに2分と経たぬ間に3ゴール目を決めた。
サッカーの試合は前後半合計90分、1点も入らない試合すらままある中、3分足らずでの達成というのは驚異的だが、もう一つすごいのがこれが後半68分の途中出場からわずか7分間での出来事だったということである。
もっとも途中出場という点では上には上があり、播戸竜二が2011年8月20日の試合にハットトリックを達成したときは後半73分からの出場というのが最も遅い出場での記録である。まさに試合も終盤の8回から代打で出てきた山崎が猛打賞を記録したが如きである(眞中や播戸のほうが先達ではあるが)。
延長戦を考えなければ、スターティングメンバーで出た選手が猛打賞を打つには8回ないし9回「の間」に打てばよい。しかし交代で出てきた選手は、8回ないし9回「まで」に打たなければならず、イニング数も打数も限られる。その限られた時間の中で猛打賞を記録するのは、意外にスターティングメンバー以上の運と実力、集中力が求められるのではないか。
そこで交代出場した選手の猛打賞について調査したのが本稿である。なおこの記録の名前について「交代選手の/控え選手の/途中出場からの/代打の猛打賞」などいろいろな名称を考えたがいずれも冗長で今一つしっくりこなかったので、今回は「交代猛打賞」という名称を採用している。
途中出場ということで一つ問題になるのが偵察メンバー、いわゆるアテ馬である。アテ馬の代わりに本命として出場するのは形の上では途中出場ではあるが、「より限られた打席機会の中で猛打賞を達成したケース」をピックアップする本稿の狙いからすると、本命出場というのはほぼ先発出場と同じことになると考え、これは一応除外とした。
本稿では偵察メンバーについて「メンバー表には記載されたが、打席にも立たず守備にも就かずに交代した選手」と定義したが、該当するかどうかの判定が難しいケースもあるため、それらも折に触れて説明していく。
例えば交代猛打賞を最も多く記録した選手は南海の堀込基明の計10回であるが、この全てが偵察メンバーに代わっての出場であった。
このうち1966年5月4日の西鉄対南海2回戦では、1回表に1番穴吹隆雄の代打で出場している。穴吹は当時控えの右打者という位置づけだが代打等として十分に起用されていた、いわばアテ馬らしい選手ではなかった。
それでも1回表の1番打者への代打では穴吹は偵察メンバー同様であり、堀込にしてみれば先発出場とまるで変わらない、というわけである。
そういった偵察メンバーにあたるケースを省いてみると、調査の限りでは通算3回達成というのが最多タイ記録となり、6人が確認されている。
最初は八田正である。左打ちの内野手で巧打者ということで、スタメンにせよ代打にせよ重宝という言葉がしっくりくる起用のされ方をしたことが大きい。
1958年8月31日の大毎対近鉄19回戦で、チームは10安打を放ちながら武智文雄-大津守のリレーに完封負けしたが、4回からセカンドに入った八田は武智から3打数3安打、同じく猛打賞の葛城隆雄と共に気を吐いた。なおこの日はダブルヘッダーで続く20回戦にスタメン出場し、こちらでも5打数3安打で猛打賞を記録している。
1963年9月8日の近鉄対大毎24回戦は3回に代打で適時打、7回に黒田勉、そして9回は佐々木宏一郎からとどめの2ランを放って3安打3打点の活躍のほか、5回はグリヒン相手に送りバントを決めている。
1965年7月25日の阪急対東京11回戦は先発が足立光宏、右の1番石黒和弘が凡退したので交代出場したが、3回から左の梶本隆夫にスイッチされて打席に立つ羽目になった。
ところがこれを苦にせず2打数2安打1四球、4打席目は8回の先頭打者で野呂瀬義昭から3安打目を放つとこれを足場にチームはこの回9安打で10点の猛攻撃となった。
当然打者一巡となったため2回目の打席が回ってきたが、投手が左の三平晴樹に代わったためか代打と交代している。
なおこの試合では2番に偵察メンバーの石田二宣が起用されており1回表に早速左の井石礼司が代打に送られているなど、相手の先発投手が事前に読めていなかったのは確かである。にもかかわらず1番の石黒は代打も出ずに打席に立っていることから、これを偵察メンバーとしては扱えないと判断している。
次は和田博実である。黄金時代の西鉄ライオンズの正捕手の印象が強いが、外野で起用されたり控えに回ったりするケースもしばしばあった。
1964年9月29日の近鉄対西鉄29回戦は神原隆彦が捕手で先発したが2回で早くも7失点、3回の打席にも凡退とあって失格の烙印を押されたか和田と交代した。以降3投手をリードして無失点と立て直したのは和田の貫禄だろう。それでも届かず結局徳久利明に7安打完投勝利を許したが、和田は5回7回9回と3打数3安打してひとり気を吐いた。
1965年6月9日の西鉄対東京9回戦では4回先頭の河合保彦に代打で出て小山正明から安打、6回も先頭打者で安打して伊藤光四郎の適時打につなげると、8回3たび先頭打者で安打と満点の働きぶりで、勝利投手になった小山をよく打った。
1968年4月7日の西鉄対近鉄3回戦では3回から左の長田裕一郎が登板とあって左打者の伊藤に代打で出て安打、ライトに入って5回には佐々木宏一郎から安打を放つと8回は先頭広野功に続いて安打、この回5連打と犠打で4点をもぎ取ったが、9回は田辺修にファーストゴロに抑えられ試合に敗れた。
3度の交代猛打賞いずれも負けている展開から出てきてそのまま試合にも負けてしまったが、いずれの試合でも相手勝利投手を打ち込んでおり、西鉄黄金時代の残り香を存分に発揮する活躍だった。
続いては富田勝である。法政三羽ガラスの中では一番地味な成績だったが、所属した各球団で活躍し全12球団から本塁打を放つなど、いろんなシーンで輝きを見せた。
1972年6月16日南海対阪急10回戦では、先発のサード佐野嘉幸が2回の守備時に足を痛めたので交代で出て米田哲也から3回5回7回と安打、チーム7安打のうちの3安打を放つ活躍だったが試合は完敗だった。
巨人に移籍して1974年には、8月3日の阪神対巨人16回戦と8月8日の中日対巨人16回戦で立て続けに交代猛打賞を記録した。
8月3日の試合では4回裏の守備から長嶋茂雄に代わってサードに入ったがこの回3失点で2-8という厳しい展開だった。しかし6回に谷村智啓から反撃の狼煙となる適時打を放ち、7回に左の江夏豊が出てくると待ってましたとばかり適時打でこの回2点目をたたき出し、9回には末次利光の本塁打で1点差に迫ると1死二塁で再び江夏から適時打でとうとう同点に追いついた。
適時打3本で負け試合を引き分けに持ち込むという中身の濃い交代猛打賞だった。
8月8日の試合では4回に代打で稲葉光雄から安打して無死満塁、この回一挙6点の猛攻を見せたがその裏追いつかれる展開。5回に渋谷幸春から2安打目を放って迎えた7回は1死満塁のチャンスだったがここは渋谷に打ち取られた。それでも8回は再び2死二三塁のチャンス、汚名返上とばかりに鈴木孝政から2点適時打を放って意地を見せた。
次いで達成したのが中原全敏である。通算で286安打、打率.215の選手ではあるが、内野ならどこでも守れるユーティリティープレイヤーであり、これを活かして交代からの出番が多かった。
ルーキーイヤーの1969年、前日まで16打数ノーヒットだった中原は8月31日のロッテ対東映19回戦に青野修三に代わって出場すると、3回に成田文男からようやくプロ初安打を放ち、これが張本勲の同点本塁打を呼び込んだ。
これで肩の荷が下りて、と言いたかったが4回は成田に併殺に打ち取られた。お返しとばかり6回に成田から再び安打を放ち今度こそ調子に乗ってきた、と言いたいところであったが、7回は再度同点に追いついての2死一二塁というチャンスで木樽正明に三振に斬ってとられて勝ち越しならず。
9回に木樽から安打を放ってなんとか9回までに交代猛打賞というちぐはぐな達成だった。なお延長11回最後の打者として木樽と対戦したがショートゴロ、チームもその裏サヨナラ負けとなってしまった。
1973年9月16日の近鉄対日拓後期9回戦では2回に末永吉幸の代打で神部年男から安打を放って2死満塁とチャンスを広げたが張本勲が牽制死で得点ならず。5回にも神部から2本目を放ったがまたも加藤俊夫が牽制死、逆に7回は1死満塁のチャンスに三振、9回神部から3本目を打ったものの、攻めがかみ合わず負けてしまった。
なお末永は打席には立っていないが1回裏の守備には就いていた。
その後1978年9月12日の南海対日本ハム後期10回戦では三振の古屋英夫に代わって2回裏の守備からサードに入り、3回に森口益光から1本目の安打、次いで5回に森口から2本目を放つと8回に三度森口から安打、その後島田誠の二塁打で追加点のホームを踏んだ。
9回ランナーを二塁において回ってきた打席は佐々木宏一郎に抑えられたものの、3度目の交代猛打賞達成となった。
中原の場合、在籍時期の関係で東映、日拓、日本ハムで各1回ずつ達成しているのが面白い。
その次が長崎啓二である。中塚政幸、高木嘉一、それに江尻亮や屋敷要など左で打てる外野手が多い環境で、おおむねレギュラーであったもののしばしば控えに回っていた。
1976年7月31日のヤクルト対大洋16回戦では、1回に間柴富裕・高橋重行の2投手で6失点とあって2回に早速代打で登場となったがここは松岡弘に封じられた。しかし4回6回と松岡から2安打、8回は鈴木康二朗から安打を放って最初の達成とした。
4番の松原誠が3本塁打の活躍だったので、打順が違っていればさらに大量点に結びついていたかもしれない。
1981年8月12日の大洋対中日15回戦でも先発の前泊哲明が3回4失点でピリッとしないと3回に代打で曽田康二から安打、高木嘉の適時打でホームインした。
4回には安打の高浦美佐緒を一塁において送りバントを決め、続く山下大輔の同点適時打を引き出した。6回には鈴木孝政から安打を放つと盗塁も決めた。
9回にも鈴木から適時打で福嶋久晃を迎え入れたがここで今度は盗塁失敗、これが響いて1点差を追いつけず負けてしまった。
同じ年の9月5日の中日対大洋24回戦では3回に辻恭彦の代打で登場、郭源治から四球で歩いたが斉藤明雄がバント失敗で併殺。
5回にも郭から安打を放ったが今度はピータースが三振ゲッツーとまずい攻めが続いた。
それならばと7回2死一二塁のチャンスに暴投でランナーを進めて気落ちした郭から、今度は2点適時打を決めてノックアウトした。
8回にチームが3点取って逆転、9回に土屋正勝から3本目、後続が打ち取られてさらなる追加点とはならなかったが、結局6-5での勝利に3度目の交代猛打賞達成で花を添えた。
3度目、と書いたが惜しいケースが1つあり、これに先立つ1978年5月6日の大洋対ヤクルト7回戦で先発のミヤーンに代わって出場して3安打している。しかしこの日はミヤーンが守備に就く前、1回表にいきなりの交代であり、守備の出場試合数にカウントされていないため、ミヤーンは偵察メンバー扱いとなる。先発を梶間健一あたりと読み違えたのかもしれない。
なお最初の2回はいずれも第1打席から代打に起用されており、そういう意味では先発出場と変わらないのではないか、という考え方もあるだろうが、本稿では、いずれも試合開始時点では出場を予期されていたケースではない点が偵察メンバーでの出場などとは異なる、という基準によっていずれも対象としている。
次の藤波行雄は、ある種の極め付きである。左の巧打者というのはこれまでの達成者の多くと共通する一方、なかなかレギュラーを確保できず控えのシーズンが多かった。
1985年7月7日のヤクルト対中日11回戦では3回に島田芳明の代打で出ると荒木大輔から安打、5回にも荒木から二塁打、続く宇野勝の適時打でホームに生還、この後モッカの2ランでしっかり中押しすると、7回は先頭打者で高野光から3安打目、これをきっかけにさらに3点を加えて8-1大勝を導く交代猛打賞だった。
同じく8月11日の阪神対中日18回戦は真弓明信とバースに早々と3アーチで1-5の苦しい展開、5回に1点を取るとまた島田の代打で中田良弘から安打を放ってチャンスを広げた。ここは後続が倒れたが、7回にも1点を加えて1死一三塁で迎えた2打席目は中西清起から適時打で1点差に追い上げた。9回にも中西から安打して追い上げたが、届かなかった。
さらに9月19日の中日対巨人26回戦では2回に4番の谷沢健一が出塁したところで足を痛めたため、代走からの出場となった。3回5回と西本聖から安打を放ち、7回には2死二塁で西本から適時打して交代猛打賞、この後宇野と中尾孝義の2ラン2本を呼び込んだ。得点に絡んだ機会は少なかったとはいえ、3安打1打点は代役四番打者として遜色のない活躍といってよいだろう。
ここまで見てきたとおり1シーズンで3度の達成というのは唯一の記録で、あっという間の日本タイ記録であった。しかもこのシーズンの藤波はわずか22安打に終わっており、この3試合でその半分近い安打を稼いだのも異色であった。
以後現在に至るまで、3回達成した選手はいない。だが惜しい例はあるので、過去のものも含めて紹介しておく。偵察メンバーに関する解釈如何では、3回達成となる選手も中には含まれる。
水谷実雄は1970年5月13日の広島対大洋4回戦、1973年6月16日の広島対巨人9回戦といずれも交代猛打賞を放ち、同じく8月25日の阪神対広島18回戦でも代打で出てから3安打したが、これは1回表に2番渋谷通に代打として出たもので、堀込が穴吹に代わって出たケースと同様渋谷を偵察メンバー扱いとしたため、今回のケースからは外したものである。
柳田真宏は1971年8月5日の大洋対巨人21回戦、1973年10月11日の巨人対阪神25回戦と交代猛打賞を放った。
その後1975年7月30日の広島対巨人16回戦では柴田勲に代わって出場し3安打したが、これは柴田が顎に打球を当てるというアクシデントが試合前にあり、一度は出場ということでメンバー表に柴田が名前を連ねたものの打撃がままならず、結局1回裏の守備から柳田が交代で入ったものだった。
決して偵察メンバーというわけではなかったのだが、柴田は全く出場していないことから結果的に偵察メンバー扱いとなった例とした。
なお1974年9月14日の広島対巨人25回戦でも槌田誠に代わって出場し3安打しているが、これは当時の起用法から槌田が正しく偵察メンバーであったと考えられている。
高柳秀樹は1985年4月24日の近鉄対南海4回戦と1986年8月16日の西武対南海20回戦で達成し、同じく9月20日の近鉄対南海20回戦でも山口裕二に代わって3安打したが、山口はこの試合守備の出場記録がついておらず偵察メンバーとした。
秦真司も1988年4月10日の巨人対ヤクルト3回戦と同6月9日の巨人対ヤクルト9回戦で立て続けに達成したが、1991年5月8日のヤクルト対阪神4回戦、1996年4月19日のヤクルト対広島1回戦ではそれぞれ土橋勝征と飯田哲也が守備に就く前に交代しての3安打であり、土橋も飯田も偵察メンバーである。
これ以外にも投手の偵察メンバーに代わって出場し3安打したのが5回あり、通算9回は堀込に次ぐ歴代2位タイ(もう一人は片平晋作)という近年のオーソリティーの一人である。
最後にもう一例だけ紹介したい。1951年5月25日の東急対毎日5回戦は、毎日が1回に先制、4回に6点を奪って大方試合を決めると5回にも4点を追加、最終回にも1点を加えて都合12点を取った。大量点に支えられた野村武史が10安打打たれながらも9回完封勝ちという大勝だった。
この試合で毎日は4回裏からレフトの呉昌征に代えて白川一を送った。4回の6点で余裕のできたものか呉のアクシデントによるものかは不明だが、この白川が5回に適時打、7回に安打、そして9回にも安打を放って交代猛打賞達成という活躍を見せた。
ところでこの9回は、安打を放った白川が最後の打者となっている。最終アウトの経緯については分かっていないが、白川の安打に伴う走塁死、あるいは次打者の時の盗塁死や牽制死などがあったということだろう。
猛打賞を記録するには打者二巡に加えて自分の3打席目が必要だから最短で19人の打席が必要である。だから1番打者が試合開始から3打席連続ヒットを打てば、試合開始から19人目で猛打賞を記録することになる。これ自体はしばしばある話である。
ではこれを試合終了から遡ってみればどうなるか。冒頭の山崎のケースでは、山崎の1安打目から試合最後の打者までは21人を要していたが、一般には19人と最後にアウトになる打者を合わせて20人が必要である。だが最後が盗塁死などで次打者の打席が完了せずに回が終了した場合その打者は打席に計上されないから、真の最短は19人ということになる。
白川のケースがまさにこれに当たるわけで、確認した限り唯一の記録となっている。人数を基準にすればこの白川の19人が、アウトカウントを基準にすれば山崎の5アウトが、交代猛打賞の最少(あるいは最短、最速、何と呼ぶべきか難しいが)記録ということになるだろう。