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全球団からの達成者 打者編

1977年のオフ、渡辺秀武が大洋からロッテに移籍した。巨人、日拓・日本ハム、大洋と渡り歩く中で日拓・日本ハム以外の11球団から勝ち星を挙げていたので、残る日本ハムに勝てば全球団から勝利することになる、ということで話題となった。

その1978年は36試合に登板したが、11試合が日本ハム戦とはチームも記録達成に向けて後押しした。8月25日の後期10回戦では同点の8回裏に登板し9回表に1点勝ち越し、その裏を抑えれば勝利投手というところまで行ったが、気負ったか集中打を浴び無念のサヨナラ負け、翌年広島にトレードされて夢は潰えてしまった。

その後、1983年5月15日に大洋戦で勝利を挙げた野村収が史上初めて全球団からの勝利を達成、同じく10月にはその大洋の古賀正明が巨人から勝って達成2人目となった。翌1984年限りで引退した江夏豊は、古巣阪神から勝てずに全球団勝利は逃したが、日本ハムに移籍した1981年5月19日の対南海前期6回戦でセーブを挙げて、全球団からのセーブは達成していた。

勝利やセーブが話題になる中、1996年には江藤慎一、富田勝、加藤英司の3人が全12球団から本塁打を打っていたという記録が発掘された。その直後に落合博満が日本ハムに移籍、4人目の達成なるかと思われたが、ロッテ戦で打つことができず11球団どまりとなった。

2002年には石井浩郎が横浜に入団、巨人から本塁打を打てば全球団達成であったが結局この年は1本塁打も打てなかった。一方同じ年に武田一浩が巨人に入団、5月7日に対中日7回戦で勝ち星を挙げて3人目となる全球団からの勝利を達成した。

2005年には交流戦がスタートした。それまではセパ各2球団ずつの在籍でないと達成できなかった記録が、2球団に在籍すれば達成可能となり、勝利や本塁打に限らずさまざまな記録で全球団を相手にした記録の達成者が出ている。

ただ、上に述べてきた勝利とセーブ、そして本塁打は話題となっているが、それ以外の記録項目についてはあまり取り上げられていない。そこでこれらの諸記録について達成状況を調べたのが本稿である。


原則として、「その選手がプレーした期間に存在した全ての球団」を全球団達成の判断対象とする。従って選手によって対象となる球団数は異なる。概ね、戦前1リーグ時代なら9球団、戦前~戦後の1リーグだと11球団、2リーグ分立後は7球団が加わり、あとは高橋・トンボの存続時代、大映の吸収合併、近鉄の合併と楽天の誕生で球団数が変わってくることになる。

今回調査した項目は、安打、二塁打、三塁打、本塁打、打点、盗塁、勝利、敗戦、セーブ、ホールドなどである。他の項目についても可能な限り調べたのだが、達成者が多い(三振など)項目については煩雑になるため、上記の項目を中心に述べていく。

ところで、達成の判断において交流戦での成績を含めることについては、少し峻別する必要があると考える。

記録としてのすばらしさに差はなくとも、2004年までに達成された記録はそれなりの現役年数、そして移籍の繰り返しが必要であり、達成に至る難易度は格段に上である。また2005年以降の達成でも、交流戦を含めずに達成したのであれば、交流戦の試合分だけリーグ内対戦数が減っている状況下では2004年以前よりも一層難易度が高いとも言える。

したがって以下では原則として交流戦での記録を含めない達成を主要に扱うこととし、事情に応じて交流戦での記録を含む達成者についても触れていくこととする。


まずは安打であるが、これは交流戦を含めずとも33人が達成している。もっともそのうち戦前の選手が17人、戦後1リーグ時代までだと21人であり、2リーグ制以降に在籍した選手では12人となっている。その中でも特筆すべき選手を挙げてみると、まずなんといっても岩本義行であろう。

表8a-1-1 全球団から安打を打った選手

1938年の南海結成時に参加するも直後に召集令状を受け2年間徴兵されたため実際のプレーは1940年からであったが、この年のうちに戦前存在した南海以外の8球団すべてから安打を放った。

再度召集を受けた1942年限りで退団、戦後はアマチュアでプレーしたが1949年に大陽でプロに復帰した。この年に南海と戦後新規加入した東急・大映から安打を記録したが、ここで東急から安打を打っていたのが記録へのポイントとなった。

大陽は1950年の2リーグ分立時には松竹となってセリーグに属したことで、この年セリーグに新規加入した大洋・国鉄・広島・西日本の4球団から安打を放ったが、国鉄が2回戦だったのを除けばあとはすべて初顔合わせの試合での一打だった。ここでこの年限りで消滅した西日本から安打を放ったことが、記録へのもう一つのポイントである。

1952年に大洋に移籍、1953年限りで引退したが、1956年には一つ目のポイントと指摘した東急の後身である東映からお呼びがかかり、なんと選手兼任監督として現役復帰した。

このおかげでパリーグの新興球団とも対戦することになり、毎日、近鉄、そしてこれまたこの年限りで解散する高橋と安打を重ねた後、4月24日に西鉄からも安打を放って全球団からの安打達成と相成ったが、その数19球団というのは現在に至るまで最多であり、今後も破られることはないであろう。

表8a-1-2 岩本義行の全19球団安打

安打の項でもう一人挙げるなら、工藤隆人であろう。2005年に日本ハムに入団、交流戦のおかげもあり2007年と2008年だけで10球団から安打を放っていた。2009年にトレードで巨人に移籍すると、交流戦で日本ハムから打って11球団、そして9月20日にはヤクルトから安打を打って全12球団とした。

交流戦を含む達成者は工藤の他にも100人近くいるが、工藤がすごいのはその後もリーグ内対戦で安打を積み重ね、最終的にリーグ内対戦のみで12球団から安打を放ったことである。これは2005年以降在籍した選手では33人中唯一の記録である。

2009年にはヤクルトだけでなく阪神、中日、横浜からも安打を放ち、翌年には広島からも打って巨人以外の5球団から安打を記録した。あとは在籍した日本ハムと巨人が残ったが、2011年の途中にロッテに移籍して8月2日に日本ハムから安打を記録し、2014年にテスト入団した中日で2016年4月9日にようやく巨人から安打を放ってついに全12球団達成とした。

表8a-1-3 工藤隆人の全12球団安打

なお工藤は通算199安打であったが、山中潔はこれより2本少ない197安打で全12球団からの安打を達成しており、これが最少の、言いかえれば最も効率の良い記録となる。


続いて二塁打だが、これは交流戦を含めないものでは11人が達成しており、そのうち6人が戦前9球団での記録である。戦後組では、全球団本塁打を達成した江藤と富田に加えて、落合、石井、そして若菜嘉晴が達成している。

表8a-2-1 全球団から二塁打を打った選手

石井は巨人戦で通算わずか3安打、本塁打は打てなかったが2002年4月28日に二塁打は打っていた。また若菜は西武とロッテから本塁打を打てなかったが二塁打は記録しており、最後は1990年7月22日の対西武17回戦での達成であった。

一方、全球団から本塁打を打った加藤英司は二塁打では10球団どまり、記録達成を逃している。通算367二塁打だから達成する力は十分あったが、セリーグの水になじめなかったのか、中日と広島から二塁打を打つことができなかった。


次は三塁打であるが、これは達成者が1人しかいない。交流戦での達成を含めても2人しかいないという非常に希少価値の高い記録であるが、その唯一の達成者が、戦前の1リーグ時代に全9球団から記録した鬼頭数雄である。

表8a-3-1 全球団から三塁打を打った選手

1937年5月8日、大東京対名古屋金鯱3回戦で放ったプロ初三塁打は9回の同点打で、この後サヨナラのホームを踏んだ。次いで5月12日の対巨人2回戦では5回に沢村栄治から同点の2点適時三塁打、これらを含めて1937年の春に3球団、秋にも2球団から三塁打を放っているが、この5試合中4試合が同点に絡む中身の濃さであった。

翌1938年は春秋1本ずつで2球団、1939年7月28日には残る南海から打って、所属するライオン以外8球団から三塁打を記録した。その後1941年に南海に移籍すると、4月20日、古巣ライオンとの最初の対戦で三塁打を放って達成した。

鬼頭は1940年にシーズン13三塁打の日本記録をマークするなど戦前を代表する三塁打のオーソリティーであったが、8球団から記録した1939年までの三塁打数は通算16本、最後の1941年もシーズン2本であり、非常に効率のいい記録であった。1942年に召集されて1944年に戦死してしまったが、戦後のプロ野球に所属していたらどうなっていただろうか。

表8a-3-2 鬼頭数雄の全9球団三塁打

もう一人の、交流戦を含めての達成者は平野恵一である。

2002年にオリックスに入団、プロ初三塁打は2003年の開幕戦である3月28日の対近鉄1回戦で放っているが、近鉄相手の三塁打はこれ1本きり、2年後に球団がオリックスと合併して消滅しただけに、貴重な1本となった。

この年は他に日本ハムからも記録、2004年はロッテと西武、2005年はソフトバンクと着実に積み重ね、2007年の楽天戦でオリックス以外のパリーグ6球団から三塁打を記録した。一方2005年から始まった交流戦では3年間で1本しか打てなかったが、この1本が2005年5月24日の対阪神1回戦で出ており、2008年にその阪神に移籍したというのが近鉄からの1本に次ぐ二つ目のポイントである。

2008年中に巨人、ヤクルト、そして交流戦で古巣オリックスから三塁打を記録、2009年に横浜、広島と打った後、9月26日の対中日22回戦で放って全13球団からの三塁打を達成した。この時通算22三塁打、鬼頭同様効率のいい記録達成であった。

表8a-3-3 平野恵一の全13球団三塁打

本塁打については前述のとおり江藤、富田、加藤が達成、惜しかったのは若菜、落合、石井の他にもう一人、井上弘昭がいる。

表8a-4-1 全球団から本塁打を打った選手
表8a-4-2 江藤愼一の全12球団本塁打
表8a-4-3 富田勝の全12球団本塁打
表8a-4-4 加藤英司の全12球団本塁打

広島、中日、日本ハムと移籍してきたが、最晩年の1985年だけ在籍した西武での出場が10試合、そのうち3試合が日本ハム戦だったが4打数ノーヒットに終わり、本塁打だけでなく安打、二塁打についても11球団どまりで涙を呑んでいる。

表8a-4-5 井上弘昭の対戦球団別本塁打
表8a-4-6 落合博満の対戦球団別本塁打
表8a-4-7 石井浩郎の対戦球団別本塁打

次は盗塁を見てみよう。こちらは達成者が10人で、うち8人が戦前9球団時代の記録である。ちなみにこの全員が安打と打点についても全9球団から記録しており、さらに小林、鬼頭、堀尾、大塚は二塁打でも達成している。すなわち鬼頭は安打・二塁打・三塁打・盗塁・打点と「5部門総なめ」である。

表8a-5-1 全球団から盗塁を決めた選手

戦後の2人であるが、1人目は山本尚敏である。戦前はライオンに所属し、1938年7月10日の対タイガース4回戦でプロ初盗塁を決めたのを皮切りに、1940年までにライオン以外の全8球団から盗塁を記録したが、ここまで通算16盗塁とは鬼頭の三塁打と同じ数であり効率のよさが光る。

戦後1946年に中部日本で復帰、この年は0盗塁だったが翌年7盗塁する中で、かつてのライオンである大陽、戦後新規加入組の金星と東急から相次いで盗塁を記録して全11球団達成となった。特に9月1日の対金星11回戦では同点の9回、加藤正二の代走に出て来て二盗を決めた後、サヨナラホームスチールまで決めてしまった。

通算23盗塁で11球団制覇と相変わらずの効率の良さだったが、金星戦だけでなく東急戦でも代走出場で決めた盗塁であり、これに味を占めたのか翌年は18試合の代走で20盗塁という当時の日本記録をマーク、シーズン通して26盗塁とそれまでの通算盗塁数を上回る数字を1年で記録した。

しかし俊足を持ちながら代走起用がメインということはそれだけ打撃が非力だったことの裏返しでもあり、東急相手には1打点こそ挙げたものの通算22打数0安打と打てずじまい、盗塁と打点は全球団からマークしたのに安打では達成ならずという珍記録を残している。

表8a-5-2 山本尚敏の全11球団盗塁

さてもう一人が、これも岩本と並び称すべき成績を残した安居玉一である。1941年に阪神に入団、翌年に初出場を果たし、プロ初盗塁は4月21日の対大洋1回戦だった。翌年大和を含む5球団から盗塁を決めたがその後召集、だがそれまでに戦前で消滅した大洋と大和相手に決めていたことが、記録達成の一つのポイントであった。

1947年に阪神に復帰し、以後1949年までに中日、急映、大映から盗塁を記録、2リーグ分立の1950年にはセリーグで大洋、広島、西日本から記録、そのうちの大洋に翌年移籍して、2年間で国鉄と大阪から盗塁を決めてセリーグ全球団を制覇、残すはパリーグの新興球団だけとなった。

1955年に近鉄に入団してチャンスを得たがこの年は球団数を増やすことはできず、1956年に大映に移籍してから近鉄、高橋、西鉄と盗塁を決め、最後は8月14日の対毎日10回戦で盗塁して全18球団からの達成とした。

なお1940年で合併消滅した名古屋金鯱とは対戦できなかったが、プロ初盗塁の大洋は名古屋金鯱とセネタースの合併したチームであり、見方によっては全19球団の系統からの達成ともいえる。

1955年の近鉄時代は2盗塁で3盗塁死に終わっていたのが、翌年の大映では5盗塁の4盗塁死と少し盛り返し、そのうち4盗塁を未達成の球団相手に記録していることには、ひょっとしたらこの年の安居は記録のことに気づいていて、あえて狙っていったのではないか、とすら思えてくる。

表8a-5-3 安居玉一(玉置玉一)の全18球団盗塁

打撃部門の最後は打点である。交流戦を除いても30人が達成しているが、そのうち18人が戦前の達成、戦後1リーグ時代まででも22人が達成しているため、2リーグ制以降に在籍した選手では8人である。最多19球団の岩本を筆頭に安居、江藤、富田、加藤、若菜、落合、これに加えて平塚克洋が達成している。

表8a-6-1 全球団から打点を挙げた選手

平塚は大洋・横浜、オリックス、阪神、西武と移籍し、勝負強い打撃で阪神ではレギュラー、オリックスと西武では準レギュラーも経験したが、プロ初打点が1990年5月6日の対阪神6回戦で、大洋・横浜3年間の7打点の間に阪神相手に記録しておいたのが達成に役立った。

表8a-6-2 平塚克洋の全12球団打点

ところで先述した岩本の19球団からの安打には、全球団からの達成という視点の他に、19球団が史上最多であるという見方がある。そこで本編からは少し外れるが「最も多くの球団から達成した選手」という観点についても触れておきたい。

この観点で岩本義行の19球団安打と安居玉一の18球団盗塁から話を始めると、岩本はこれ以外にも16球団から本塁打、15球団から二塁打を放っており、本塁打は安打同様最多、二塁打は4位タイである。

本塁打は戦前1シーズンだけの対戦となった名古屋金鯱と西鉄、近鉄から打ち損ね、二塁打は西鉄、近鉄に加えて毎日、高橋・トンボから打てずと、やはり晩年の東映監督兼任時代の対戦相手に集中している。

表8a-7-1 岩本義行の 全球団記録 達成状況

安居は安打と打点も全18球団、二塁打は大和以外の17球団、三塁打は南海、近鉄、大和、高橋、西日本を除く13球団、本塁打は西鉄、大洋・西鉄、黒鷲・大和を除く15球団からの達成である。二塁打は最多タイ、それ以外は2位につけて、隠れたオールラウンダーぶりを見せている。

表8a-7-2 安居玉一(玉置玉一)の 全球団記録 達成状況

この二人に比肩するのが木村勉である。戦前は南海に所属するも1941年を最後に応召、戦後近畿で復帰して大陽に移り、そのまま松竹でセリーグの選手となって大洋、広島と渡り、1954年に近鉄に移籍してパリーグでの対戦機会を得た。

この近鉄で選手生活を終えたため近鉄自身との対戦機会がなく「全球団からの達成」には漏れてしまったが、それ以外の18球団と対戦する中で、二塁打は1954年5月16日の対高橋1回戦で17球団まで積み重ねて最多記録とした。戦前に対戦機会のあったセネタース・翼・大洋から二塁打を打ち損ねてしまったのが惜しまれる。

また三塁打でもイーグルス・黒鷲、西日本、毎日を除く15球団から打ってこれが最多記録となっているほか、盗塁と打点は対戦した18球団すべてから記録して安居と並ぶタイ記録である。

唯一本塁打はからっきしで1000安打以上を打ちながら通算9本塁打では箸にも棒にもかからないが、二塁打、三塁打、盗塁で最多記録に輝くのは小兵の誇りであろう。

表8a-7-3 木村勉の 全球団記録 達成状況

これ以外では青田昇と関口清治が挙げられる。青田は戦前の名古屋金鯱、戦後の高橋・トンボとは対戦機会がなかったが、対戦した17球団全てから安打を放てたのは現役最後の年に阪急に移籍してパリーグの球団との対戦が増えたからである。

戦後を代表する本塁打王だがイーグルス・黒鷲、毎日、西鉄からは打つことかなわず14球団どまり、しかし二塁打と打点は16球団から記録している。どちらも西鉄戦で記録できず、最晩年の鬼門となった。

表8a-7-4 青田昇の 全球団記録 達成状況

関口は戦後入団のため戦前でなくなった3球団と1950年に自身が所属しその1年で消滅した西日本とは対戦機会がなかった。だが対戦機会のあった残る15球団から安打、二塁打、打点を挙げて総撫でにしていた。

本塁打は13球団にとどまるが、晩年の阪急時代に古巣西鉄から打てなかったのはまだしも、西日本時代にどうしたわけか広島から打つことができなかった。

表8a-7-5 関口清治の 全球団記録 達成状況

本来本稿では投手成績もまとめて述べるつもりをしていたのだが、話が脱線したせいか分量が大きくなりすぎたので、ここまでを一旦打者編として区切った上で、投手編は次稿に譲ることとした。

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