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青紗蘭という野良。/おもうま文 散らかる文 青紗蘭 ちょっとかきなおしちゃった。
私の文には、割と重いとされるテーマを含んでいる部分があるかもしれない。
例えば死について。
私は、生について考える上で、死を考えないことは不可能だと思っているので、隠すことせず、考えている。
私の場合、死について考えるとき。生まれたときから考えるより、まず「こんな風に死にたい!(だいたいの旅計画)」からはじまる。
私にとって死は、終点のないバス及びバス停に近いかもしれない。何時降りるのか、または乗るのか。それは、わからない。
器得て個になったときから、できごとやこころ、揺れたことが、バス停の名前としてできてゆく。
自分の終着(辿り着きたい場所)が決まってるから、何歳までにはこうなって、ここら辺まででこれを遣っといて…ということを作文で書いたら、先生から色々心配をされた。
しかも、このときのタイトルが
【よりよくいきて よりよくしぬ。】
だったので、少なくとも子どもらしいとされる作文内容では無かったのだろう。
少し大人になった頃、先生の心配した理由を察したが、人間って面倒(大変)だなーとぼんやりしていた。
何をいつ学ぶかなんて、年齢じゃないのにね。
そんな感じで思うままに毎日を過ごしている。
そして、あるときは、またこんなことを考えている。
私の中で、いのち と 命 はちがう。
命は、この世の個である命をさしていて。
いのちは、何処という概念がない。
全体をさしている。
ときに、愛を語ることもある。
これも、(個)としての愛と(全体)としての愛の目指すところがちがうので、ムニャムニャッと考えていたりする。
考えているとは、いったものの。
実際は集中の先にある感覚やあらゆるいのちとの会話を愉しんでいるだけかもしれない。
題名までつけてしまったが内容は薄い。
(●´∀`●)つ🍑🌽✨

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