いのちのねだん 散らかる文/青紗蘭
これから書くことは、誰かを傷付けるかもしれない。だが、文章を書くと言うことは、それも含めて受け容れ、丁寧に話し合うということなのだろう。
私は、あるときからペットショップにいけなくなった。ゲージに入っている動物達が、値段をつけられて売られているということに、強烈な違和感を覚えたからだ。恐ろしく感じた。
いのちに値段をつける。
ならば、人といういのちは?
人が、同じようにゲージにいれられて、値段をつけられて売られていたとしたら。
この子はかわいいから50万。
この子は丈夫そうだから30万。
この子は血筋がいいから100万円。
あなたは、直視できるだろうか?
人間が勝手に値段をつけるとは、そういうことも含むのだ。(人間がいつ捕食される側にまわるとも限らないが。)
私は、自分のいのちも他のいのちも変わりないと思っている。
私は、植物を育てるという仕事柄、どうしても虫や菌のいのちを捕殺しなければならないときがある。出来れば、いのちを奪いたくない。
だが、一方で今できる最大限の共存を望んでも何かを生かすことは、何かを奪うのだという事実を受け止めている。
私の覚悟としては、私が奪ったいのちたちに感謝を捧げながら生きること。
そして、かれらのいのちが望むなら、私はかれらの糧になるということだ。あくまでも私の話である。だれかに強制などしないし、正しさなど無い。
どちらにしろ、いのちは還元しなくなったら終わってしまうのだ。
これに限らず、あたりまえや当然だと思っている(思い込んでいる)ことを、ほんとうに?と考える重要性を散らかしたつもりだ。
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