8月6日「過ちは繰り返しませぬ」
アメリカ人が原爆を落としたのではないのか。なぜ「繰り返させませぬ」ではないのか。慰霊碑を見ていつも不思議に思っていた。
「過ち」とは何なのか。
原爆が落とされて、日常が一瞬にして奪われた時、人々はおそらく「誰がこんなことを!」とは言わなかっただろう。「何故こんなことが!」と叫んだに違いないと私は思う。
原爆資料館に行って、黒焦げになっている中身のつまった弁当箱や、焼け焦げてしまった三輪車、ボロボロの制服などを見た時、私も「誰がこんなことを」とは思わなかった。「どうして……」としか思えなかった。
何故、どうして、という問いがあるなら、その問いに答えることが後世の者の責務だろう。「何故、この子が死ななくてはいけなかったのか」に対する答えは「〇〇が××をしたから」ではないだろう。そんな表層的なものでは答えにはならない。
憎むこと恨むことは、手っ取り早い納得方法だ。罰すればその時だけは溜飲が下がるだろう。「私の子どもを殺したあいつを死刑にしてください」という訴えはよく目にする。気持ちはわかる。私も、もし娘が殺されたらその犯人を殺す、とずっと思ってきた。でも、それは何か違う、とも思ってきた。
それは根本解決にはならないのだ。
アメリカが原爆を落とした。だから広島ではたくさんの人が死に、今も後遺症に苦しむ人がいる。だからアメリカを罰するべきだ。という考えはやはり表層的なもののような気がしてならない。
「何故」「どうして」に答えるためには追究しなくてはいけない。「何故この子が殺されてしまったのか」「何故突然日常が奪われてしまったのか」
アメリカが原爆を落としたから。それは何故?
戦争をしていたから。それは何故?
何故、を突き詰めていくと「誰が悪い」「どこの国が悪い」という結論には至らない。たくさんの要因があって、たくさんの偶然があって、たくさんの思惑が入り乱れてくるからだ。誰も戦争がしたくて戦争をはじめたわけではなかったということにまで辿り着くだろう。
どこで間違えたかを知らなくてはいけない。それが「何故」に対する答えなのだと思う。
「過ちは繰り返しませぬから」という言葉の主語は、「わたしたち」だ。「わたしたち」というのは人類すべてだ。人類すべてが、「何故」を考え続けることで、戦争への道を回避する行動をとることができるはずなのだ。
「過ち」は原爆を落とした(落とされた)ことではない。戦争というものへの歩みを止めることができなかったことなのだ。
「だって偉い人たちが勝手にやったことだし」と思わされてはいけない。私たちには声を挙げる権利がある。監視していく義務もある。憲法をろくに議論もせず改変していこうという輩がいないか、戦争で儲けようとしている連中はいないか、監視し、声を挙げ、選挙に行くことで意思表示をしていく義務と権利を私たちは持っている。
私はその義務と権利をしっかりと行使しますという誓いが、「過ちは繰り返しませぬ」という言葉に込められていると私は思う。「わたしたち」は一人称なのだ。「わたし」と「わたし」と「わたし」と「わたし」…たくさんの「わたし」が集まって「わたしたち」だということを忘れてはいけない。