苔の美しさを僕なりに語ってみよう 色のない湿度を苔の彩で感じて 〜延長戦〜
無欲な共生の美しさに憧れているのかもしれない
と始まった前編と
共生という言葉自体が人間中心的な言葉なのかもしれないと否定し軽蔑した後編
昨日の自分を今日は軽蔑する自分。植物が光に向かい重力に抗するように僕も何かに向かい自分に抗ってみる。そんな自分に信頼して期待しない
人間の偉大さは人間が橋であり、それ自体は目的ではないということにある。人間が愛しうるのは、人間が移りゆきであり、没落であるからだ。
人間は綱であり動物と超人のあいだに掛け渡された深淵の上に掛かる、一本の綱だ。
本当は人間自体には意味がなく動物と超人の掛け渡された深淵の上に掛かる一本の綱なのであれば、止まるも没落、進むも没落、戻るも没落、そんな絶望の中に何があるのか、それとも何もないのか。そんな事を考えながら今日は苔との思い出でふける。
北海道から友人が訪ねてきてくれ、また京都御所の苔を見に行く。京都にいるときは定番になっていた。
その友人がバス釣りに夢中な時に僕は琵琶湖の苔に夢中その運命を琵琶湖に委ねるように側に美しく寄り添う
滋賀県の山奥にある地主神社。山の湿度は苔の雑味を装飾する
近くに澄んだ水が流れているのが分かる若い緑と深緑の苔を纏う木。この近くで食べた鯉のあらいは忘れられない
渡月橋の近くの人工物の上で生きてくれる苔に少し安心する
石垣島のバンナ公園。見えることが全てではない事を教えてくれる生い茂る緑を支える苔
離れてから眺めるのもまた味わいがあって
近くで見るのも幼さが発見できて
色気を醸す石垣島の荒川の滝
どこまでも身近にいて
どこまでも受け入れてくれる
そんな苔達の彩で色のない湿度を感じて
薄味な幸せを味わう
今日はそんなお話。