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第7話 「しかれたレールに疑問もなく生きること」に抗って生きることを求めることの価値とは?【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】


8月16日、ヒッチハイク198台分の6台目。

皇太子夫妻(現天皇皇后ご夫婦)がいらしててそれを見に行くというご夫婦の車に乗車。
(そうか、「那須の御用邸」って耳にするけどこの那須か。)
一度通り過ぎてわざわざ引き返してきて乗せてくださった。

日産にお勤めされていて、以前東京の多摩に勤務していたが転勤でこちらに来ているという。佐渡出身で、佐渡には「本間」の名字が多いそうだ。

こちらのご夫婦はいろいろな豆知識を教えてくださった。そういうのすごく好き。だからちゃんとメモしてある。

栃木はこの時期夕方に必ず通り雨が降るという。急に暗くなって大粒の雨になるそうだ。

確か栃木育ちの母がよく言っていた。栃木は雷が多く、犬とかが雷で死んでいたと。それがトラウマになっていると。

あとこの辺は釣りが盛んだそうで、ヘラブナ釣りをよくされるという。「ヘラに始まり、ヘラに終わる」というくらい奥が深いそうだ。

あと、栃木は運転マナーが悪いという情報も。東京に住んでたからうなずける比較なのかもしれない。

コンビニでお菓子とおにぎりをいただき、さようならをする。

さて、那須には中学高校時代の恩師がいる。ぼくの通った学校から転勤して那須にある学校に勤めていた。

でもその学校は現在では東北の大震災で倒壊してしまいなくなってしまっている。震災の時は天井の埋め込み式のエアコンが、次々に落ちてきたという。

先生、命が助かって本当によかったね。

これまでにも何度か遊びに来ていたので、快く泊めさせていただき、この旅初めての温泉にも連れて行ってくれた。

翌日は舘岩村に、東京の友達の実家であるという温泉旅館があるのでそこに泊まらせてもらった。

8月19日、会津若松を目指す。地元調布の飲み仲間の弟さんが住んでいる。朝一番は同じ旅館に泊まっていた方に乗せていただき、その次は37歳の教師をしている方に乗せていただいた。

「おれも青春。まだまだいける。」とおっしゃっていた。この方は福島から角田というところまで70km歩くというのをやったことがあるという。列車で日本を少しまわったこともあるとも。

冒険家か作家になりたかったのだそうだ。
「でも一番なりたかったのは学者でね。今日は実は勝負の日で、論文を発表するんだよ。学会誌に論文を載せたくて。ホッブスの研究をしている。」

熱い方に出会った。ぼくは人生を比較する。今、社会から外れて新しい生き方を模索している自分と、ごく当たり前の日常をおくりながらその場でできることに挑戦している生き方と。

(「しかれたレールに疑問もなく生きること」に抗って生きることを求めることの価値とは・・・。)

でも当時のぼくには日本二周の旅という現実を進めることが何よりも先決だったし、そうするしかない。ひきかえさずに達成できるかが、まず自分に果たした課題だった。

会津若松に着いた。友達の弟、むなさんは街中でボードショップを経営していた。歩いて行ける範囲に鶴ヶ城があるので、お店が終わるまで人生2度目の鶴ヶ城見学をした。

むなさんは趣味でBMXをしていて、お店が終わると、
「SEGEくんもやってみる?」
とBMXを近くの公園でやらせてくれた。BMXというのは自転車の曲芸みたいなやつ。タイヤの上にのって自転車を動かしたり、ハンドルを360°回転させたりするやつ。

前からやりたいと思っていたからめっちゃ楽しかった。こういうの好きだなあ。

それとむなさんは変わった性格というかこだわりがあって、こんなことを言っていた。
「おれは朝一はコーヒーと決まってるんだよ。あと、家を出るときは絶対たばこは吸わない。出る前に吸うと出かけた後に火事になってないか心配になるからね。それと言葉は絶対略さない。」

(へえ、かわってんなあ。)
まあそれは言葉には表さなかったけど・・・。

でもとてもいい人で、一緒にいて不快な思いは一切なかった。初めて会ったお姉さんの飲み仲間であるぼくを友達のように扱い、接してくれ、家にも泊めさせてくれたのだからとても感謝している。

8月20日、仙台へ。彼女の実家がある宮城県。

実はぼくの胃腸はこのとき非常に弱っていた。なぜか。それはヒッチハイクという非常に気を遣う移動の仕方と、次の瞬間どうなるのかわからないストレスに常にさらされていたからだ。

だから下痢気味だった。それでも親切な方に食事やお酒を御馳走になることが少なからずあり、実はそれがすごい苦痛になっていたのだ。

すごくありがたいのに食べ物が口に進まない。はきそうなのをこらえていただく。そんな状態だった。

でもまさか「食べられません」なんて言えず、「ありがとうございます!うまいですね!」と笑顔で答えて、がんばって完食を心掛けていた。

そんなこんなでまだまだ知り合いにお世話になれる序盤だったけど、それなりにぼくは疲弊していたのだ。

やはり精神的にはぼくは細い方なのだ。

そして知り合いと連絡がつくのはとりあえず宮城まで。ということはここから先は泊まる場所は基本的に野宿になるだろう。新潟に友達はいるけど、日本海側は北海道から南下してきた後だ。

ちゃんと新潟までたどり着けるだろうか。

だから宮城で調子をリセットしなければ。

宮城にはお盆休みで彼女もその幼馴染もみんな帰郷しているタイミングだったから、きっと毎日宴会三昧になるに違いない。

心はきっと休まるだろう。いや、ここで休ませなくてはならないな。

つづく

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