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もしも英語が使えなくても長旅できる

もしも英語が使えなくても長旅できる

20年ほど前、2か月の長旅に出ました。

地元の友達やっくんが、

「バーの店長をやめる旅に出るから、SEGEも一緒に行こうよ。」

と大学卒業間近のぼくに誘ってきたんです。

ぼくは卒業後、晴れてあこがれのフリーターになり、シンガーソングライターになるために音楽活動を始めるつもりだったので、願ってもないチャンスだと思いその提案に乗りました。

「いやあ、やっと学校という束縛からはずれて、学校というレール、学校から社会へというレールから外れて、レッテルのない本当の自分を試すことができるぞ!」

と意気込んでいました。

やっくんが行こうと誘ってきたのはインドです。

(インドかあ。行きたかったんだよなあ。深夜特急読んであこがれてたし、長渕剛も行ったそうだし。カオスだって聞くし。人間の本質がそこにあるかもしれないし。でも、はじめての貧乏旅がインドかあ。ちょっとこわい。)

少し時間をもらって考えましたが、こんな機会はめったにないし、やっぱり行きたいところだったし勇気を出して行くことにしました。

数日後やっくんに、一緒に行くことにしたと答えると、

「おれ、そんなこと言ったっけ?」

酔っぱらってたんかい!!

でもやっくんも出発が近づいてくると心細くなってきたのか、

「SEGEが一緒に行ってくれることになってよかったよ。ほっとした。」

と言うようになりました。

旅のルート

旅のルートは、タイ経由のインド、ネパール、タイ経由で帰国です。

当初は1か月の予定でしたが、思ったより浪費しなかったので2か月に延長し、後半の1か月はお互い分かれて一人旅をしました。

所持金は8万位だったと思います。ひと月4万くらいで生活したことになります。

それとインドで出会った旅人たちが一様に「パキ(パキスタン)はやばいよ!フンザに行った方がいいよ!」と言っていたので、インドから陸路でパキスタンに行き、またインドに戻ってネパールへ入るというようにルート変更しました。

このルートで英語が使えるのはインド、タイ、ネパールです。もちろん観光地でないと難しいです。パキスタンはほとんど通じません。

まず日本を発ち、タイで一泊トランジットで泊まり、そこからインドのカルカッタに降り立つのですが、ぼくは初めてのアジアにめんくらいましたね。

まず街が臭い!インドよりもタイの方が臭かったかもしれません。しかもその時期、タイの方が暑かったです。

ぼくは高3の時オーストラリアに兄と二人旅をしたことがあるのですが、やっくんは本当に初めての海外で相当カルチャーショックだったようです。

インドではカオサン通り沿いの安宿に泊まりましたが、その宿にたどり着いてベッドに体を預けた瞬間、やっくんが言った言葉。

「おれ帰りたい。」

(おまえが誘ったくせに!もうギブアップか!まだ初日だし!!)

確かに、トイレも便座がなかったり、よくわからないホースがぶら下がっていて、おそらく紙の代わりに使うのかなという感じだったり、客引きの圧や街の喧騒など日本とは全く違いますよね。

まあそれでもまさかあきらめるわけでもなく、ちゃんとインドのカルカッタに降り立ちました。

(やっくん大丈夫かな。おれ2人で旅するの心配になってきた。)

ぼくはギターを持っての旅で、歌の修行でもあったので、泊まったところ泊まったところでしょっちゅう歌っていました。

カルカッタはサダルストリートの宿。その次は海の街プリ―のサンタナという宿。その次は仏陀が悟りを開いたブッダガヤの宿。

日本語を全くしゃべれないのがつらくなる

ブッダガヤにはやっくんは同伴せず、ぼくは一人で泊っていて、初めて日本語を誰ともしゃべらない数日間を過ごします。

この旅で一番帰りたくなった時かもしれません。

ぼくの英語力はごくありきたりな日本人レベルです。すごいしゃべれるわけでも聞き取れるわけでもなく、かといって全くわからないわけでもない。

西欧人と話すと早すぎてわからないけど、インド人とならちょうどいいくらいです。

インド人の英語は元イギリス領とはいえ、庶民の英語はめっちゃへたくそです。へたくそどうしでちょうどいい感じに通じ合えます。

それでブッダガヤで泊まった宿は日本人がいないので、完全にインド人としか接しない生活になりました。

そのうえ、自称「やくざ」と言い誇る日本に来たことのある日本語のしゃべれるインド人に拉致されそうになったりして精神的に不安定になってしまい、

「はやく日本に帰りたい!というか、日本語しゃべりたい!!」

というふうになってしまいました。日本語シックですね。

それでプリ―で仲良くなった旅仲間がブッダガヤに来てくれて、なんとか自分を取り戻せました。

ガンジス川のあるバラナシ

さて、ぼくはやっくんとバラナシで合流です。バラナシはベナレスと言ったり、ワーラーナシーと言ったりするようです。

ガンジス川があって、火葬場があるところと言えば分かりますか?あそこです。

久美子ハウスという日本人のおばさんがやっている安宿が川沿いにあってそこに泊まりました。

長渕剛さんも泊まったことがあるんですけど、久美子さんは日本にしばらく帰ってないので分からなかったそうです。

その久美子ハウスの屋上で星を見ながら歌を歌ったのは最高に気持ちよかったですね。

それでやっくんと合流した翌日、夕方宿に帰ってきたやっくんが丸坊主になっています。

「切ってきてもらったよ。インド人に川のそばで。50ルピーだった。安いな。」

まじ、タイでギブアップしそうになったやっくんとはちがい、このころのやっくんはだいぶアジア貧乏旅をエンジョイしているようでした。

それで仲良くなった数人と一緒に、あこがれの「ガンジス川を泳いで渡る」というのをやってみました。

いちおうもしもの時のために手漕ぎボートを並走させてくれるようインド人にお願いしました。

ちゃんと達成しましたよ!きたない水は口に入りましたが。

久美子さんには、

「病気になるからやめた方がいいよ。やるなら上がったらすぐシャワー浴びなさい。」

と言われていました。

何せ生活排水ダダ流しの、死体まで流れてくるので。

もちろんすぐにシャワーを浴びましたが。

そして、ぼくらはバラナシのあとデリーへ向かいます。

パキスタンは英語は通じない

デリーはインドの首都ですね。デリーにもたくさんの旅人に会いましたし、ぼくの歌のファンも増えました。

そしてデリーから列車でパキスタンとの国境に行き、そこからパキスタンに徒歩で入り、イスラマバードなどを通ってひたすら北上し、カラコルム山脈にあるフンザのカリマバードという村に行きました。

(このパキスタン道中記はかなり厳しいものでした。あとで紹介する記事を読んでみてください。)

山の向こうはもう中国です。

パキスタンは英語は通じないですね。イスラム圏なので。でも何とかなります。

ていうか、インドよりはるかに旅しやすいです。

街にゴミ箱があるし、きれいだし、日本車たくさん走っているし、人もやさしいです。

タクシーは日本のスズキ車で、名前も「スズキ」でした。「スズキ!」と言ってとめます。

ただ兵隊がいたり武器ショップがあったりしてこわいです。怒らせたらやばいなという雰囲気はありました。

それでフンザはどうしていいかというと、「風の谷のナウシカ」の舞台になった場所の一つと言われていて、世界最後の桃源郷とか言われることもある場所なんです。

パキスタンについての記事を書いてますので、ぜひ読んでみてください↓

パキスタンで乗り合いジープの3人掛けに5人座って15時間拘束されるとどうなるか

風の谷のナウシカ全7巻セットはすごい感動する

やっくんの驚愕の英語力

さて、パキスタンからもう一度インドに戻ったところで旅は1か月以上たったあたりでした。

やっくんとそこでお別れして、数週間後ネパールで帰国直前に待ち合わせしようということにしました。

こういうのも壮大な待ち合わせでいいですよね。当時はメールで簡単に連絡しあうなんてできませんから。

せいぜいネット屋さん見つけて、ホットメールでがんばってメールするくらいです。

しかも日本語対応しているネット屋を見つけないといけないんです。お金ももったいないのでしょっちゅう使えません。

だからやっくんとは、「カトマンズで~月~日くらいに会おう。カトマンズ入ったらメールする」くらいの約束でした。

それである時やっくんが買い物から帰ってきて言いました。

「SEGEさあ、おれワンハンドレッドの意味がやっと分かったよ。100でしょ!

とうれしそうにぼくに言うんです。

「えーーーー!!今まで知らなかったの?よく1か月も旅してこられたね?どうやって買い物してたの?」

衝撃の事実です。

やっくんは、挨拶や2桁の数を英語で言うのがやっとくらいの英語力だったのです。

そうなんです。英語ができなくても1か月以上旅することはできます。

気持ちと笑顔と身振りと勢いです。

その後やっくんとはネパールでは会えませんでしたが、やっくんはそのあまりのみずぼらしい風貌に、タイの空港でタイ人に恵んでもらったそうです。

めでたしめでたし


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