第98話 神戸へ行ったら六甲山からの眺めを見るべし【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】
実は四国は急ぎ足で回った。
それは5月26日に神戸で約束があるからだった。
沖縄の夢有民牧場の元スタッフ、愛媛のみっちゃんが牧場に連れてきてくれた方々の中に、しんじさんという京都在住の宮大工さんがいる。
しんじさんはウクレレ奏者でもあるのだが、のこぎりとウクレレで演奏する「ゴールデンバタフライ」というグループを組んでいる。
そのライブが神戸の芦屋であるので、そこで待ち合わせしようということになっていた。
ヒッチハイクで旅をしながら期限に合わせて行くというのは結構エキサイティングだ。
いや、ただ行くだけなら高速を使えば一日に何百キロも移動できる。
でもぼくは全都道府県に少なくとも降りて次へ向かう、できれば歌ったり観光したりということをしているので、そうなってくると果たして到達できるかどうか精神的にひりひりしてくる。
ただ、それがむしろモチベーションになってくるし、旅先で出会った人に、「5月26日に待ち合わせしてるんです」と言えることは、面白い話題提供にもなった。
この日は5月24日だった。
あと一日ある。岡山から神戸はもう目と鼻の先だから、のんびり進めばよい。
しかも芦屋のライブに間に合わなくてもしんじさん達は関西にいるので、どのみち会うことはできる。
しんじさんは宮大工の仕事で6月に上海に行ってしまうそうなのだが、6月までに会うことは絶対にできるから無理やり焦る必要はなかった。
そして関西には沖縄のbeach69で歌を聴いてくれた仲間たちや、インドで出会った親友のトシもいる。
また、鳥取でお世話になった与田さんの住まいも神戸にあった。
関西に入るのが楽しみで楽しみで仕方がない。
所持金は本当に微々たるものだったが、それだけ知り合いがいれば関西にいる間は何とかなる。
(あんな話、こんな話、たくさんしたいなあ。)
トシとは去年の9月に別れて以来だったから、募る話がたくさんある。早く会って、九州、沖縄に行ってきたこの半年のいろいろな話をしたかった。
ヒッチハイク132台目。
東岡山から備前まで。岡山に単身赴任中の広島出身の方。
「岡山と言えば、桃太郎、きび団子、桃だね。」
133台目。備前から姫路。
「のれや!」
トラックを停めるなり強引に乗せられたような感じ。
兵庫の高砂市出身の運ちゃんだった。
「今日は広島まで行って来たんだよ。家が運送屋で大学出てからずっとトラックやってるよ。」
運ちゃんは備前や兵庫県南西部にまつわるたくさんのことを教えてくれた。
・赤穂市と言えば赤穂浪士
・「赤とんぼ」の歌は、龍野市をふるさととする三木露風がその風景を歌ったもの
・備前市閑谷には、江戸時代にできた現存する世界最古の公立学校「閑谷学校」がある
(しかし、こんな昼間なのに広島まで行って来たって、トラックの人達の距離感とか時間間隔とかって違うんだろうなあ。)
ぼくはあっけなく姫路に着いた。
姫路と言えばやはり姫路城だろう。
この旅ではなぜか城見学率は高い。
(おれって城が好きなのか?)
確かに昔プラモデルでいくつか作ったこともあったっけ。
姫路城に入ってみると姫路城はなんと世界遺産だった。
(これは来てよかった。)
ぼくはこの旅で家紋も好きになっていた。旅をしていると屋根瓦にいろいろな家紋を見ることがある。
広島の親父の実家の瓦にも家紋があって、それを見てからは歩きながらいろいろな家の家紋を見るようになっていた。
姫路城にもいくつかの家紋の説明があった。
ぼくは城見学を終え、しばらくぶりに銭湯に行くことにした。谷田くんのアパートに泊まってから体を洗っていない。
その日も河川敷で野宿をした。
5月25日。神戸を目指す。
ヒッチハイクをしなくても歩いてたどり着けそうな距離だ。
(今日は歩く日にしよう。)
早朝、河川敷近くに吉野家を見つけ、腹ごしらえを終えるとぼくはひたすら西へ向けて歩き始めた。
ぼくは臆病だからあまりヒッチハイクはしたくないというのが本音なのだが、ただ歩くということが単純に好きでもあった。
ヒッチハイクを100台以上やっても臆病が消えるわけではないのだ。笑顔でやろうと思っても、いまだに笑顔は引きつってしまう。
だからなるべく歩けるところは歩く。
今日は思う存分歩けると思うと元気が湧いてくる。
ひたすら西へ20~30キロ歩くと大きめの河川敷に行きついた。
加古川だった。
河川敷でたばこをふかしながら休憩していると、岡嶋さんという方に声をかけられた。
「旅してるの?」
「はい。」
「へえ。どこから?」
「東京からスタートして、北海道まで北上して、その後日本海側を南下して沖縄まで行き、そこからまた北上して太平洋側を北上してます。」
「そんなに旅してるの?よかったらうちに来なよ。休憩でもして。」
ぼくはこうしたお誘いを受ける時、ありがたいという気持ちだけが立ち上がってほしいのだが、そうはいかなくなくなってしまっていた。
なぜなら、それは、ぼくが男性に襲われたことがあるからだった。
1回目は北海道の知内。2回目は都城。由布岳の登山は心配だったけど大丈夫だった。
今回はどっち?
一瞬不安と迷いがよぎったが、
(まあ、昼間だし大丈夫だろう。)
旅は人を信じないと進まない。
岡嶋さんは川沿いにある自宅にぼくを連れ行ってくれ、昼ご飯を御馳走してくれた。特に何も起きなかった。
(よかったあ、何もなくて。)
「ありがとうございました!」
連絡先を教えていただき、ぼくは再び出発した。
ぼくは鳥取でお世話になった与田さんに電話をしてみた。今出張先の鳥取にいなければ、神戸にいらっしゃる可能性がある。
「ああ、SEGEくん?元気ですか?今どこにいるんですか?」
「今実は加古川にいるんです。もうすぐ神戸なんですが、与田さんは今どちらですか?」
「実は今仕事で神戸にいないんですよ。でも、うちに寄っていきなさい。ぼくは明日帰るから。」
「いや、それは悪いですよ。与田さんがいないのにご家族は困りませんか?」
「大丈夫大丈夫。君と同じ年の息子もいるから、会わせたいから寄っていきなさい。」
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
(同じ年って、それはそれで逆に気まずいところもありそうな気がする。)
今日の行き先が決まったのでぼくは歩を速めることとし、ヒッチハイクを始めた。
ヒッチハイク134台目。加古川から明石。
135台目。明石から三宮まで。
岐阜から往復する市場のトラックだった。
元騎手をしていたそうで、馬の話で盛り上がった。
三宮駅から18番バスで摩耶ケーブル下まで行き、与田さんのいない与田さん宅に泊めさせていただいた。
翌日。午前中に与田さんは帰ってきて、息子さんと引き合わせてくれた。
息子さんのゆう君は肉体労働をしているそうで、色黒で髪が長く、釣り好きな、少し寡黙でワイルドな青年だった。
昨晩はゆう君は遅く帰って来たので顔を合わさなかったのだ。
「SEGEさん、よかったら原付乗ってええよ。六甲は眺めええから。」
「ありがとうございます。」
お言葉に甘えてぼくは原付を借りて六甲山に登った。
神戸港の眺めは絶景だった。
神戸港に向かって横に長い斜面がずあっーと緩いカーブを描いて降りて行く。
降りて行くにしたがってあるところで急に緑が減り、街になっていく。
今日はしんじさんのライブの日だった。
(この眺めの中に、ライブ会場もあるのかもしれない。)
遠く左の方に観覧車が見えた。おそらく天保山の観覧車だ。
(あそこにトシがいる。)
ここはおそらく1000年近く外国との交流がある街だ。ここに住む人々のプライドや土地を愛する思いも並みのものではないだろう。
しかし、あまりに眺めが開けているせいか、「神戸」というネームバリューに比べれば、ぼくには思ったよりも街のスケールが小さく見えた。
それは同時に人がこの街を手中にしたいという欲求を駆り立てそうな気もして、ある意味人間的な規模なのかもしれなかった。
また、かつて神戸に入港して来た外国人は、六甲からの神戸を見てこの街への思いをいろいろと抱いたに違いない。
そしてここは大震災で大打撃を受けた街でもあった。
その時、六甲からの眺めはどんなだったか。
ただ、いっかいの通り過ぎるだけの旅人が、大震災について踏み込むことなど軽率に思えた。
ぼくはそれについては考えない様にして、六甲を降りることにした。
(さて、しんじさんのライブに行くとするか。)
つづきはまた来週