第56話 自分の人生を飛び越えていけ。答えは行った先にある。【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】
翌日、もうあたりが暗くなるころフェリーは出発した。約24時間という長時間のフェリーは生まれて初めてだった。
桜島とさようならだ。
まあ、インドの長距離列車に慣れているのでなんてことはない。2等だから雑魚寝になるが、ここは日本だ。気楽なものだ。
錦江湾を南へ、漆黒の闇へ向かっていく。桜島側に比べてにぎやかな西側の海岸を、鹿児島の街明かりが右へ流れていく。
徐々にに街明かりは減っていき、やがて船と海とぼくと月だけになった。
月はなんと満月だった。雲も少なかった。
初めての沖縄に向かうこのタイミングで満月だとは、とてもありがたい気持ちになり、幸運だなと思った。
そして暗闇からとんでくる湿った潮風を受けると、
(いったいどこから飛んでくるんだ?)
と思ってしまった。
船と海とぼくと月。
(おれってなんてちっぽけなんだろう。)
船が波を切る音を聞きながら海をしばらく覗き込み、しばらくしてぼくは船内に戻った。
鹿児島から沖縄は地図で見るとかなり離れているように見える。ぼくは地図を広げて指をコンパスのように使い、鹿児島と沖縄の距離をはかって東京から伸ばしてみた。
実際には870kmほどらしいが、その時はそんなことはわからなかったので「だいたい1000kmくらいかな」くらいに思った。
東京から中国地方の西の端の方までくらいの距離だった。北は北海道くらいまであった。
(こんな距離に時々しかない島を経由して行くんだな。)
ぼくは地図と重ねて空から見た船の様子を思い浮かべてみた。大海原を船で渡るというのは奇跡のようにしか思えない。
けど、そうやって人類はずっとやってきたし、毎日のようにこのフェリーも事故を起こさずに動いている。
ぼくは考えても仕方ないと思い、そこで考えるのをやめて、雑魚寝の2等客室に快適さを感じながらじっくり日記をしたため、船と人類の技術に身を委ねて眠りについた。
11月2日、ぼくは安眠爆睡し、無事翌日を迎えた。
翌日はいくつかの島を経由した。奄美大島を経由しないのは少し残念だった。大きな島なので沖縄行きと一緒にすることができないのだろう。
このフェリーが経由する島の中では与論島くらいは耳にしたことがあったが、他は耳慣れない島ばかりだった。
(名瀬は「なぜ」と読むのか?それとも「なせ?」。こういうところにはどんな人がどんな気持ちで生活しているんだろうか。)
ぼくの今までの人生とは全く関わりのない、そしてかけ離れた環境の人々を想像することは難しかった。
聞いたことのある与論島という島が現実として今近くにあるということが不思議で、それはむしろ異国の地以上に意識してこなかったのに、名前だけ知っていて、それで知った気になっていたんだということがその時よく分かった。
その与論島もあっけなく通り過ぎて行った。沖縄が近づくと途中真ん中が乳首のようにぴょこっととび出ている島があった。
なんとなくカメラにおさめたのだが、後で分かったことだがそれは「伊江島」だった。その伊江島をぼくはこの後毎日のように見ることになるとはその時は知るよしもなかった。
(間に経由した島々に、ぼくはこの先の人生で立ち寄ることがあるのだろうか。)
そんな感傷に浸っているうちに、那覇が近づいて来た。
夕焼けのオレンジが那覇の起伏にとんだ斜面に乱立する、コンクリートでできた家々に放射している。
ぼくはいよいよ沖縄に上陸するのだ。
出発時も暗かったが、到着した時ももう暗かった。24時間の航行なので当たり前だが、それにしてもあっという間だった。
那覇港着。
(さて、どうする?)
ぼくの中にあった沖縄での行き先はたった2つ。
1つは当時カリスマと言われていた作家高橋歩さんの本拠地があるビーチロック。でもビーチロックは読谷というところにあるらしく、それは那覇ではないことは分かっていたのでまず選択肢から消えていた。
もう一つは月光荘という安宿だ。月光荘はアジアにある安いゲストハウスの日本版と言えば分かりやすいか。
まだ当時の日本にはそういった宿はほとんどなく、1泊1500円、夕飯300円という確かにアジアのゲストハウス的な運営をしていた。
ぼくはなんとその数か月後にその月光荘の1周年パーティで歌うことになるのだが、つまり月光荘は日本版ゲストハウスの急先鋒だったというわけだ。
那覇に降り立ったぼくの中にはその「月光荘に行く」ことだけが唯一の目標だった。
(よし月光荘に行くぞ!)
そう勢い込んでみたが、月光荘が那覇のどこにあるのかぼくは知らない。桜島のフェリー乗り場で出会った人にも聞いたが誰も知らなかった。
まさに熊本で「古未運」を探したのと似たような状況である。
一つ違うのは、熊本では駅に本屋があったが、那覇港には本屋はなく、ハローページが使えない。
(うーん。どうしよう。なんか那覇港のまわりってなんもないな。コンビニすら見当たらないし。しかももう暗いからなあ。)
そこは那覇の外れだった。困った。けど、行くしかない。なにせ那覇に月光荘はあるはずだし。那覇にも中心地というものはあるはずだ。
ぼくは目を閉じて勘を働かせた。それがあっているかは別として九州で徐々に身に着けた勘に従うという方法をとってみることにした。
(那覇でしょ。今港があったのがあそこだから、なんとなく那覇の中心地はあっちな気がする。)
ぼくは自分の勘で東に向かった。それが本当に東であったのかどうかも分からないがぼくの中では「ここから東に向かえば那覇がありそう」というように思えたからだ。
人通りは少なく、15分ほど歩いてやっと人に出会った。
「すいません。那覇の中心地はどっちですか?」
「え?国際通り?国際通りはあっちです。」
「あ、そうです。国際通りです!ありがとうございます。」
(そうか!)
ぼくは新潟で聞いたときに書いたメモを思い出した。一つ前のメモ帳を引っ張り出すとそこにはちゃんと書いてある。国際通りからおきえい通りに入り、そこに月光荘があると。
一気に視界が開けた感じがし、俄然意気込んで歩き進める。ただ、ぼくの地図には当然「国際通り」がのっているはずもない。
3,4組の人に道を聞いて、ぼくは国際通りに無事着いた。
(なんか40分くらいで着いたな。勘てすごいな。)
国際通りはにぎわっていた。20時前後だったからちょうどにぎわいもピークのころだった。
そんな時間の感覚はぼくにはあまりなかったから、単純に、
(おお!ここが国際通りか!すげえにぎわってる!タイのカオサン通り的なものかな。)
と興奮していた。
(よし。月光荘探しパート2だな。もうすぐ近くだ。でも国際通りってどれくらい大きいのかな。規模によっては時間がかかるかもしれない。おきえい通りってメジャーなの?マイナーなの?どうしようかなあ。誰かに聞くのが早そうだな。)
国際通りには飲食店を初め、お土産屋さんもたくさん並んでいる。ぼくはお店の中身には目をくれず、誰なら知っていそうなのかということにフォーカスして勘を研ぎ澄ましていた。
(お店の人に聞くのがいいかも。もし近くにあるなら知っているだろうし、はやっている店なら近くじゃなくても知っているかもしれない。)
あるお店の客引きの兄ちゃんが歩道に出ていた。茶髪でイケメンで、それでいて話しやすそうな兄ちゃんだった。
(まずはこの人にするか。)
「あのー、すいません。月光荘という宿を探しているんですけど、知ってますか?」
「あ、知ってますよ!」
「まじすか!?」
一発だった。こんなことってあるのか?いやあった。
「おきえい通りというところにあるらしいんですけど、遠いですか。」
「ん-とー。おきえい通り。あー、はいはい。そうですね。沖映通りです。すぐそこですよ。ありますあります。よかったら一緒に行きましょうか?」
「いいんですか?!」
「今大丈夫ですから。」
(一発でこんないい人にビンゴするなんてすごすぎる。これで月光荘に行ける!本当にあってるかな。どきどき。)
客引きの兄ちゃんに会えてとてもよかった。ただの客なのに商売と関係なしに道案内をしてくれるなんて。ぼくは何も商品を買ってもないのに。
ぼくは彼と連絡先を交換して月光荘の前で別れた。しんごくんというその茶髪でイケメンの店員さんとはその後もやりとりが続き、数か月後、月光荘でのぼくのライブにも彼は来てくれた。
おそらく彼は月光荘のような安宿に来るような人とはあまり関わりはないような人だと思う。
安宿ゲストハウスに来るような人は、たいていはぼくも含めてかわった旅人だからだ。しんごくんからはそういった変わったジャンルの人というオーラは感じられなかった。
それでも眉をしかめるでも、変人を見るような目つきもせず、気前よく案内してくれたことがぼくにはとてもうれしかった。
そして、ぼくの眼の前に月光荘があった。
国際通りから左折し、沖映通りから細い路地を左に入り、突き当りの建物が月光荘だった。
「月光荘」と書かれた誰かの手作りっぽい渋い暖簾がかかり、そこをくぐると右手にカウンターがある。
(間違いなくここが月光荘だな。)
「あのー、夕飯が食べられると聞いて来たんですけど、食べられますか。ちょっとお金がなくて泊まれないんですけど、いいですか。」
「あ、いいですよ。ちょうど今から食べるところだったから上がって!」
しかし、ぼくはただ目標地に着いたのではなかった。ミラクルはまだ序の口だった。古未運との出会いどころではない、ここからぼくの想像だにしなかった5か月の沖縄ライフが始まるのであった。
つづく