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第76話 お金を使うとお金は本当に戻ってくる【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】
もうぼくが夢有民牧場でし残したことはなくなった。
あとはここを去り、那覇でライブをして鹿児島に戻るのだ。
その頃月光荘は1周年を迎えようとしていて、1周年イベントが企画されていた。
ぼくはなんとそのイベントに出られるのだ。
数か月前、ぼくは「月光荘で300円でおいしい晩御飯が食べられるという」こと以外、何の当てもなくこの島に降り立った。
そして月光荘のスタッフのはからいで夢有民牧場にも出合うことができ、数か月前はこの沖縄に誰も知り合いがいなかったのが、そして誰もぼくのことを知らなかったのが、今こうしてその月光荘のイベントにお誘いを受けている。
(こんな奇跡のようなことはないよな。)
感謝の気持ちしかない。
さらに月光荘のスタッフはイベントの時、ぼくの寝泊りはサービスしてくれた。
「SEGE、雑魚寝だけど使ってええよ。」
と、あきが言う。
あきは夢有民牧場でもスタッフをしたことがあり、オーストラリアでワーホリもしたことがある乗馬上手な月光荘のメインスタッフだ。
あきはぼくの歌をとても気に入ってくれて、ギターを覚えてよく歌ってくれていた。
今では立派なミュージシャンだ。
ぼく以外の出演者も月光荘に泊まってよかったとは思うが、そういうことよりも月光荘に泊まることがぼくは初めてだったので、それがしかも無料ということがものすごくワクワクしたのだった。
さて、夢有民を去る前、ぼくの全財産は2万円もなかった。
1周年イベントで何かしらお金をいただけるかもしれないが、何も保証はない。
でもぼくはこともあろうに、その2万円もないお金の中から1万円を寄付することにしたのだ。
どこに?それはムーミンさんが協力しているネパールのNPOにだった。
ムーミンさんが今乗馬を商売しているのはただの動物好きだからというのではなかった。
今の前の牧場はとなりの伊豆味というところにあり、そこでは乳牛を飼い、牛乳をBLUESEALにおろしていたようで、当時は乗馬はやっていない。
かなり大規模な牧場だったそうだが、バブル崩壊で牧場を売らざるを得ず、意気消沈してヒマラヤに家族で旅立ったのだとか。
そこで出会ったのが馬と共に生活をする人々であり、そのスタイルに感銘を受けて今の今帰仁の牧場で乗馬を始めたのだという。
また、ムーミンさんにはネパールで学校を作るNPO活動をしている知り合いがいて、時々その話をしていたからぼくもその活動に興味を持って寄付したのだった。
それにぼくは昔からヒマラヤが大好きで、当時すでにネパールにも行ったことがあったし、ヒマラヤは勝手に自分の最終目的地、心のふるさと、あこがれの地としている。
だからヒマラヤで大変な生活をしている子供たちを支援するというのはかなりぼくの心をくすぐったし、でも今すぐ何かできるわけでもなく、それなら今できる精一杯の本気の意思表明ということでお金を寄付させてもらった。
4月4日、ぼくは山を下りるその日、荷支度をし終わった時ムーミンさんに言った。
「ムーミンさん、NPOの活動していたよね。おれヒマラヤの活動に寄付しようと思うんだけど。」
「へえ。そうですか。こんなに?」
「うん。1万円寄付します。」
「これはたしかに受け取りました。ありがとう。」
ムーミンさんは言葉少なに受け取った。拒否はしなかった。
「いやいやいや、受け取れません」「いいからいいから」などと遠慮するタイプではない。
ぼくはムーミンさんのそういうところが好きだった。
変に遠慮したり、過剰な親切心を押し付けてくる人がぼくは苦手なのだ。
相手の申し出は素直に受け取り、こちらも率直にアプローチする。
オブラートに包んだり、遠回しに表現したり、3度断って受け取ったり、そういった日本人らしいコミュニケーションの仕方も素晴らしい。
でも、それが盲目的な習慣となり、過剰となり、人の「意思」さえつぶしてしまうこともあるとぼくは感じている。
ぼくがあまりお金を持っていないことをムーミンさんは知っているはずだったが、ぼくの意思を尊重してくれているのだ。
そういう「意思」を、親切心や心配や不安などで押し倒してしまう人に出会うと胸が苦しくなる。切なくなる。
ぼくが自分の親に同じように寄付をしたら、絶対に受け取らないだろう。
ムーミンさんがすんなりと快く受け取ってくれて、ぼくはとてもうれしかった。
そして寄付したことでぼくの心はさらに軽くなった。出発する心の準備は万端である。
(こういう人がお父さんだったらいいのになあ。)
きっとムーミンさんに対してそう思う人は少ないだろう。こんな破天荒でよくぶち切れるじじいが親父だったら絶対に大変に違いないのだから。
ぼくは家を出てかず兄をはじめ、まだ残っているスタッフ達に見送られた。
いつもならぼくが「come as a guest,go as a friend~」と歌う場面なのだが、今日はぼくが旅立つ時だから、ぼくは歌わない。
でもまさにぼくはゲストとしてこの牧場にやってきて、今フレンドとして旅立とうとしていた。
この牧場でたくさんのお客さんたちをゲストとして迎え、フレンドとして送り出したが、今またぼくは再びさすらう旅人に戻ろうとしていた。
でも沖縄にたどり着く前と決定的に違うことがあった。
それは旅先にも帰る場所ができたということだった。夢有民牧場という場所が。
ぼくはスタッフ達と一緒に写真を撮り、牧場を背に歩き出した。
そう、歩くんです。ぼくはこの牧場からヒッチハイクを始めることにしていた。
(めっちゃ山奥だし人もいないけど、ここからヒッチハイクしたら面白そうだな。)
牧場の母屋からアスファルトの林道まで砂利道が数百メートルある。
アスファルトに出ると、そこから車通りのある県道505号まで5km以上ある。
(じゃあね。夢有民牧場。)
空はまさに雲一つない晴天で、太陽の光は沖縄の赤っぽい土を白くもオレンジっぽくも輝かせていた。
まだ暑さも厳しくなく、緑や空の色はこれからもっと濃くなっていく余白を感じさせた。
ぼくは財布も心も軽くなり、爽快な気分で砂利道をざくざく踏みしめていた。
戻って来ない馬を探しに、タンクの水の量を確かめに、何度ここを歩いたことか。
(さて、どこで車はつかまるかなあ。)
ぼくは砂利道の終わり、アスファルトのところまできた。すると後ろから声がする。
「SEGE~!!」
それは、ヘルメットを変な風に斜めにかぶって原付で追いかけて来たムーミンさんだった。
「SEGE~。ぼく、さみしい~。」
でかい図体で原付に乗っているのも滑稽だが、いいおじさんが言うことではない。
でもそういう少年ぼさというか、幼児ぽさというか、チャーミングなところもムーミンさんのいいところだ。
「また来るから。」
ぼくらはハグして別れた。
(さよなら。ムーミンさん。)
ぼくはアスファルトの道を右に出て、心を久々にヒッチハイクモードに切り替えた。
(まあ、まずこの林道で成功することはないな。一日に数台しか通らないし。期待しないしない。)
「ブーン・・・」
(え?)
ものの数百メートルで軽トラックが止まった。
「どこまで?」
「県道まででいいです。」
「後ろに乗りな。」
「ありがとうございます。」
ヒッチハイク通算198台中78台目。4か月ぶりのヒッチハイクはあっさりと始まった。
運はぼくに味方してるようだった。
荷台に乗らせてもらったので会話はなかったが、ありがたい。そしてこういうのも好きだ。
ヒッチハイク79台目。アロエを運んでるトラック。
県道505号から中部のコザ(沖縄市)まで。
「石川市は一番小さいけど、沖縄は石川からはじまったんだよ。」
と教えてもらった。
ヒッチハイク80台目。
安里さんという沖縄でメジャーな名字の40代くらいの女性の方の車だった。
「わたし犬の散歩しようと思ってね。那覇に連れて行くんですよ。」
「犬の名前はなんていうんですか?」
「アッシュっていうのよ。」
「かっこいい名前ですね。」
「ギター持ってどこに行くんですか?」
ぼくは今帰仁の牧場にいたこと、どんな旅をしているのかということ、これから那覇でイベントに出て、九州に戻ることなどを話した。
すると車が信号に止まった時、
「これ、よかったら持って行って。」
安里さんが手にしていたのは1万円札だった。
「え?ぼく歌も歌ってないし、そんな・・・いいんですか?何でですか?」
「お兄さんのお話聞いて感動しました。これ、持って行って。」
ぼくは決して1万円を寄付した話をしていない。
お涙頂戴的な話をした覚えもない。
でも安里さんはぼくに1万円ものお金を握らせてくれたのだ。
(ええ~!?1万円寄付したら1万円もどってきた!しかも、その日に!!安里さんありがとう!)
ぼくは安里さんの車で一気に那覇までたどり着き、今帰仁から3台ですんなりと目的地までのヒッチハイクを成功させることができた。
ぼくは寄付してよかったなあと思ったし、神様っているんだなあと改めて思うのだった。
お金は使った分だけもどっくるのではなく、「使ったように自分に戻ってくる」のだとぼくは思っている。