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第75話 たかがアルバイトでの出会いでも人生は変わるもの【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】

そして沖縄を発つ日は日に日に近づいてきていた。

それまでにしたいことが、オートマ限定解除以外にもう1つあった。

それはバックパックを自分のお金で新調すること。

なぜならぼくが使っていたバックパックは自分で買ったものではなく、日本二周に旅立つ前にぜんちゃんというバイト仲間からもらったものだったからだ。

ぜんちゃんはぼくが高3の時に始めたレストランバイトの仲間で、その後も一緒にファミマでバイトをしたことがあった。

フットサルをいっしょにやっていたこともあるし、ライブに来てくれたこともある。

そして彼もインドに行ったことがあって、インドに行く前にいろいろアドバイスももらっていた。

実はぼくの人生はアルバイトをきっかけに動き始めたといってもいい。

ぼくは大学時代からファミマの夜勤を4年くらいやっていたのだが、その時常連さんにギターをもらったこともあるし、毎日4時頃に来るある常連さんは、

「君、いい感じだね。おれはバーテンをやってるんだよ。おれの店に来なよ。」

と誘ってくれたこともあった。そこが調布にあるteteというバーなのである。

ぼくはよくありがちなモヒカンとか、髪の毛まっかっかのコンビニの店員ではなく、見た目はごく普通だったから、「いい感じ」が何なのかはわからない。

が、夜勤といえどもちゃんと「いらっしゃいませ」は言っていたから、そういう何げない挨拶や態度は人に伝わるものなんだとそれで学んだ。

それがきっかけでteteに何度も足を運ぶようになり、ぼくの歌を初めて聞いてくれたのが、その時の店長じゅんさんだった。

そしてteteのじゅんさんたちは仲間とDJイベントを時々していたから、そのイベントで歌わせてもらうようになり、ぼくのライブ活動が始まった。

さらに、じゅんさんの次の次の店長のやっくんはぼくをインドの旅に連れて行ってくれた。

それがなかったら日本二周の旅は始まらなかった。

さらにさらに、今の奥さんのまなみに出会ったのもファミマのバイトだった。夜勤だと朝勤の人と交代することになる。

その時朝勤だった一人がまなみである。初めて出会った時、

「めっちゃかわいい!超タイプだ!」

とひとめぼれ。

(緑のアイシャドウと緑の透明なリングのピアス。いいなあ。)

ぼくは朝一緒になるとたくさんおしゃべりできるように仕事を早く片付けておいた。

しかの彼女は朝遅刻してくることがあり、

「もしもし。フロント9番です。アルバイトの時間です。」

とふざけながらぼくは電話で起こしていた。それがめちゃくちゃ楽しかったからむしろ遅刻してくれた方がよかった。

服飾の専門学校生だったまなみは、酒好きで、当時毎晩のように飲んでいたようだ。

おそらく朝からバイトなのに朝まで飲んでいたこともあったと思う。

ぼくはバイトの度に(今日の朝はまなみかなあ)と楽しみにしていた。

とはいえ、当時はお互い彼女彼氏がいたのでただのバイト仲間以上には発展しなかったが、まさかその10数年後に結婚するとは思いもよらない。

とにかくたかがバイトされどバイトである。出会いはだれにも予測できない。

たった一つの出会いが人生を変えていく可能性がある。

「出会いがない」と言う人がいるが、家から出ている以上出会いがないということは絶対なくて、それは出会いがないのではなく、自分から自分の可能性を閉ざしているのだ。

これから起こるかもしれないことを、何も根拠もなく自分からありえないと否定しているのだ。

いや、家から出なくてもネット上だって実はどんな出会いがあるかは分からない。

大事なのは、未来に対してどういうスタンスで自分がいるのかということだ。

旅をするにあたっては、特にこの心構えがあるかどうかはリアルに現実に反映されていく。

もちろんそんな風にいつも前向きに思えるわけではないのだが、そういうことがあるということはその当時に自分に染み付いたと思っている。

でも、ぼくがアルバイトをただ何となく始めたのであればそうはならなかったかもしれない。

ぼくはそれなりに気合を入れてアルバイトを始めたのだ。

当時のぼくはとにかく地元のアルバイトにこだわっていた。

というのもぼくは小学校から私立育ちだったので地元に友達がいなかったのだ。

近所で遊んでいたり、駄菓子屋にたまっていたりする公立の子たちを見ると、

(いいなあ。)

とうらやましく思いながら育っていった。

うらやましいだけでなく、当時は私立に通っているというだけで石を投げられたり、悪口を言われたりということもあったから、自然とコンプレックスを抱くようになっていった。

そういうこともあって、「アルバイトは地元でやろう」「地元のアルバイトで友達を作ろう」というのがそもそもの目標だったのである。

「飲み会」というのを初めて知ったのもアルバイトだった。

ぼくがしたアルバイトは、レストランもコンビニもオープンメンバーだったのだが、オープンメンバーだと社員もスタッフの仲を深めるために積極的に飲み会を開くもの。

だからみんな仲良くなる。

それに先輩がいないから仕事の中でも重要なポジションにつきやすい。仕事も飲み会も充実していた。

ぼくはアルバイトで一気に地元の知り合いが増えて、

(地元の友達と飲み会がしょっちゅうあって楽しいなあ。)

アルバイトは実際かなりハードだったが、そんな風に思いながら地元のアルバイトを満喫していたものだ。

ぜんちゃんもその時仲良くなった一人だ。そのぜんちゃんがバックパックをゆずってくれるというのだ。

実はぼくがインドで使っていたリュックは、いわゆるバックパックではなく、本当に普通の40Lくらいしか入らないリュックだったので、ぜんちゃんが気を使ってくれた。

「SEGEくんおれのバックパック使ってええよ。もうおれインドいかんし。」

「まじで?!それはありがたい!!」

そう、だからぼくが沖縄までしょってきたのはぜんちゃんのバックパックだった。

でもそれもかなりボロになってきていたので、この先旅を続けていくうちに完全に壊れてしまうのが目に見えている。

(沖縄にいるうちに新しくしておこう。)

ぼくは一発免許試験に行きがてら那覇で情報を集め、那覇市の天久という地にノースフェイスのバックパックがたくさんあることを突き止めた。

そして登山用75Lのバックパックを見つけたのである。

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BADKANDS75。最大で90Lまで入る。

背中にクロスしたフレームも入っていてしっかりしているし、腰の部分のベルトでしっかりバックパック全体の体重を支えてくれる。

大きな荷物を背負う場合、腰のところで締められないと肩にすべての負荷がかかってしまうのだ。

だから腰でしっかり締まることがとても大切なのである。

「やば。かっこいい。」

ならんでいるどのバックパックもかっこよくて、今までそんなふうにちゃんとバックパック選びをしたことがなかったから、余計に興奮してしまう。

容量を考えるとぼくにちょうどいいのは3万円ほどのだった。しかもかっこいい。

もう目は釘付けだった。完全にロックオンしていた。

(3万か。出せないことはない。今5万くらいあるから何とかなるな。)

ぼくの当時の金銭感覚はたぶんおかしくなっていたと思う。5万くらいというのは、つまり全財産が5万くらいということなのである。

そのうちの半分以上をバックパックに費やしていいのか。

いいのだ。こういう時はけちってはいけない。

バックパックが旅において大事なものであるということだけでなく、このように思い切ってお金を使うということ自体が、実はいいことを舞い込ませることにつながると思っていた。

仮に3万円払ったとして、まだ出発までにも一発免許試験料とかガソリン代とかたばこ代とか、なんだかんだで出費がある。

そうするとおそらく牧場を出るころには残りは1万円くらいになっている可能性もある。

まあでもいいのだ。きっとなんとかなる。

これは絶対に必要なものを買うのだから間違っていない。けちるところではない。

ぼくは一旦牧場に帰り、冷静に考える時間を持った。

そしてぼくはバックパックを手に入れることに決めた。

ノースフェイスのバックパックを購入するその日、ぼくは天久でさゆりちゃんと会うことにしていた。

彼女は夢有民牧場に乗馬に来たことがあるお客さんで、ぼくの歌を聴くためにその後もビーチ69のライブに来てくれたし、何かと連絡を取り合っていた。

なにせ、とてもかわいいのだ。そんな人に歌を気に入ってもらえるというのは、それはそれはうれしい。

でも実はライブの時にCDを渡せなかったので、彼女が沖縄にいる間に渡せるタイミングがないか考えていたところだった。

さゆりちゃんはまだ那覇にいたので、ぼくが那覇で一発免許の試験を受けに行くついでに会えるということになり、バックパックもついでに買おうと思ったので、天久に来てもらうことにした。

CDを渡すと、

「実は私、東京にもどったら足の手術をするの。生まれつき股関節が悪くてね。」

「そっか。それは不安もあるよね。応援してるよ。」

「ありがとう。SEGEさんもがんばってくださいね。」

「うん。」

人はいろいろな思いを内側にしまいながら生きている。

そんな人たちの、少しでも力になれたらいいなとぼくは思った。

さゆりちゃんとはそれきり会ったことはない。今頃元気にしているだろうか。

つづく

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