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第128話 人生で初めて挫折した時が人生のスタートとなる【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】

 
日本二周中、帰京後の関東山梨編は終わり、次は神奈川編だ。
 
しかしその前に、京都に行くことになった。
 
世間はお盆なので、高校時代の部活の同級生から、「墓参りにみんなで行かないか」と誘いがあったのだ。
 
京都の福知山には柏原の墓がある。
 
きっとご両親のどちらかが京都なのだろう。
 
実はぼくはこの日本二周の中で京都に行った際に、福知山までヒッチハイクをし、一人で墓参りをしていた。
 
その時のことは第一部の26話27話に書いてある。
 
柏原が生前住んでいたのは川崎市の生田だった。
 
ぼくはちょうど神奈川に向かおうと思っていた矢先だったし、柏原に呼ばれたのかもしれない。
 
それと、部活のメンバーとはぼくはまだわだかまりがあったから、少しでも距離を縮めるための、柏原のはからいなのかもしれなかった。
 
交通手段は車だ。
 
運転はほかの人がしてくれたから快適なものだ。
 
というか、ぼくはヒッチハイクでの旅の途中だったから、考えてみればずっとこんな生活をしている。
 
車で京都までかっとばす。
 
何度ヒッチハイクをしていてもこういうのは楽しい。
 
それに同級生なのだから、気も楽だ。
 
一つのことを除いて。
 
「すげえなSEGE。ヒッチハイクで福知山まで柏原の墓参り行ってきたの?」
 
車内では当然ぼくの旅の話にもなった。
 
ぼくらは世間では新卒の1年目になる世代だ。
 
だから院生や、ほやほやの新入社員という面々だ。
 
そこに一人だけ日本二周ヒッチハイクで歌の旅をしているぼく。
 
きっとみんな興味があるだろう。
 
しかし、ぼくはそんなに自分の話を積極的にしようとは思わなかった。
 
バレーボール部はぼくの中では「ホーム」ではなかったからだ。
 
 
ぼくの中学時代の部活は野球部から始まった。
 
野球部で膝を悪くし、精神的な負担にも耐えられなくなって辞めてしまい、バレーボール部に入った。
 
「バレー部ならそんなにこんを詰めなくてもいいだろう。」
 
極力精神的な負担が少なくなるような、それでいてやっぱり運動はしていたいという甘い考えで入ったのである。
 
中高一貫校なので、高校の部活ともつながっている。
 
高3の兄もそのバレー部に入っていたことがあったので、何も知らないところに入るよりも居場所は作りやすいかなという考えもあった。

そんな中途半端な気持ちで入ったというのもバレー部がホームではない一つの要因だったと思う。 



どうしてぼくは当時そんなに弱気だったのか。
 
それはぼくが人生で初めての挫折を味わっていたからだった。
 
小学校時代は運動も遊びも勉強も人間関係も、どれも充実していた。
 
クラスでは「四天王の一人」とか言われてもてはやされていたと思う。
 
ところが中学に入ると個性の強い連中ばかりになった。
 
運動ではあまり負けたことがなかったのに、野球部でぼくが活躍できそうな見込みはなさそうだった。
 
小学校時代にリトルリーグなどでやっていた連中が多く、能力だけでなく、彼らのプレー上での知識や判断力に、ぼくはめんくらっていた。
 
ぼくは野球はすきだったが、そこに膝の病気が重なり、見学をしたり、一人膝に負担がかからないメニューをしたり。
 
自分だけみんなと違うことをしている。みんなと同じ練習ができない。
 
与えられた課題をちゃんと全うしたいというのがぼくの性格だったから、ぼくの自信は日々崩れ落ちて行き、どんどん逃げる方へ落ちて行った。
 
かまってほしい、かわいそうだと思われたいという甘えもあった。
 
「以前の自分の姿はこんなんじゃなかった」とか、「本当はおれはできるんだよ」とか「よく思われたい」という虚栄心があったと思う。
 
そして「今できることをがんばろう」「いい所を見せよう」とちょっとがんばると膝が悪化する。
 
その状況に耐えられなくなった。
 
「本気で取り組もうとしても膝が悪くなるならやめよう。手を抜いてずるずる続けるなんてしたくない。」
 
それも本音だったが、活躍出来ない、だめなところを見せたくない、という思いも働いたと思う。
 
1年で野球部を辞め、そんな後ろ向きな状態で入ったのがバレーボール部だったということだ。
 
ぼくは人生で初めての挫折を味わっていた。
 
大げさだが、小学校時代という過去の栄光が崩れ去ったのだ。
 
ぼくはリタイヤしたのだった。ギブアップしたのだった。
 
「もしかしたら膝がよくなっても活躍出来ない自分を見たくなかったのかもしれない。」
 
そう思うことがさらに自分で自分を責める材料になっていった。
 
「おれはなんてダメな奴なんだろう。」
 
12,13歳の、自分の自我を自分で見つめ始める時期。
 
精神というものの存在に敏感になる時期。
 
ぼくは挫折を味わい、自己嫌悪と自己否定の沼にはまっていった。
 
それと同時期にぼくの心をつかんでいたのは、ギターと歌だった。
 
それは偶然ではなかった。
 
その難しい時期だからこそ、歌の持つ力に引き込まれて行ったのだろう。
 
ぼくは小6の時に初めて自分でCDを買った。
 
長渕剛の「JEEP」というアルバム。
 
家族みんなが長渕剛が好きで、「親子ゲーム」とか「親子ジグザグ」とかをみんなで観ていたという影響もある。
 
はじめは、ドラマで流れている歌が耳に残って「ピーピーピーピー」とか、「I`m a super star」とか歌っていたレベルだったが、小6の時に兄貴が進めてくれたのが「JEEP」だった。
 
長渕剛はこの前のアルバム「昭和」のときに「とんぼ」をリリースし、ヤクザ風にイメージを劇変させてドラマでも世間を騒がせていた。
 
歌の世界観もどんどんとがってきていた。
 
それがちょうどぼくの思春期と重なったのだった。
 
それと同時に中1になってからぼくはギターを習うことになる。
 
「こんな指が痛いやつやってらんねえ」と兄が1カ月で挫折したギターが家に放置されていたので、母が、
 
「あなたギター習ったら?器用だし、将来役に立つかもしれないわよ。」
 
その一言でぼくは迷うことなくギターを始めたのである。
 
母の先見の明はすごい。
 
もしかしたらぼくが精神的に難しくなってきているのを感じていたのかもしれないし、自分がしたかったギターを、この子ならやるかもしれないと思ってのことかもしれない。
 
まあ、いろいろな要因が重なっていて、起こるべくして起こったのだろう。
 
ほどなくして近所のクラシックギター教室に毎週通うようになった。
 
発表会では近所のグリーンホールで「禁じられた遊び」の「愛のロマンス」を独奏したが、思えばそれがぼくの人生初ステージだ。
 
ギターを1年間習ったころ、それはちょうど野球部を辞めたころだった。
 
ぼくは歌いたかった。
 
長渕剛の歌を歌いたくて歌いたくて仕方なくなっていた。
 
自分を歌いたくて歌いたくて仕方なくなっていた。
 
長渕剛の歌は、自分の、自分に向けての歌になっていた。
 
そしてただ歌うんじゃなくて、ギターを持って、自分でかき鳴らしながら叫びたかった。
 
ぼくはギター教室をやめ、自分で楽譜を手に入れては、長渕剛の歌を毎日歌いまくった。
 
まさに水を得た魚だったと思う。
 
ギターを、自分の心をかきむしった。
 
技術的には、クラシックを習っていたおかげでアルペジオはお手の物だった。
 
はじめはクラシックとは違うタブ譜の見方やストロークでコード弾きに手こずったものの、またたくまに長渕剛の歌をコピーできるようになっていった。
 
こうして、ぼくは長渕剛を軸にして他の好きな歌手の歌も吸収するようになり、高校時代になるとエリッククラプトンのアンプラグドにはまった。
 
そこからは「長渕と洋楽」がぼくの音楽の中心になった。
 
そうやって中学高校時代にぼくの音楽の基礎ができあがったのである。
 
ギターと歌がなければ今のぼくはいない。
 
当時のぼくの心を救うものはなかっただろう。

つづきはまた来週

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