第133話 薪割り修行、そして日本海側の富山の立山から太平洋側の富士山を見た【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】
ぼくの予定では、千葉、茨城をクリアした後は日本二周目に突入し、寒くならないうちに東北をまわっておくというものだった。
ひと冬用の薪割りをするのだから一日やそこらで終わるものではない。
これから富山で薪割りをしていたら10月になってしまう。
1周目の時は10月頭は広島にいた。
富山に行ったとして、1周目と同じペースで回ったら途中でこごえてしまうだろう。
それに、富山に行くとしたら千葉や茨城はどうする?
戻ってきてから向かうのか?
そんなしんどいことはしたくない。
しかしだ。
富山で薪割り。そして清河さんという博識で、興味深い芸術家のおじさんと関係を深めることができる。
いろいろな話を聞ける。
この経験は、今断れば永遠に訪れないだろう。
その貴重な経験を捨てて、行っていない県を訪れることにこだわっていていいのだろうか。
しかもこれは人助けだ。
「もし人生がここで終わるなら、後悔しない道はどっちだろう」
それがぼくの選び方だ。
このチャンスを逃したらきっと今後絶対訪れない。
だったら選ぶ道は決まっている。
(富山へ行こう。)
この旅はこうだったから面白いはずだった。
予測のつかない意外な展開。
そこに身を委ねる。
ぼくの腹は決まった。
ぼくのこだわりは壊された。
日本二周の旅のここからは、柔軟に、心の向くままにいくのがよい。
土地やルールにしばられるのではなく、行きたいところに、呼ばれたところに行くことにしよう。
もはや2周目となれば1周目に出会った人との関係性で動いていくことになるのは必然だ。
アポなしで行くわけにはいかないし、相手方の都合に合わせていかないといけない。
その扉を清河さんは開いてくれたんだと思う。
これは大きな転換点だった。
浜松からシルクロードに行ったように、今回は富山で薪割りという仕事をしに行く。
これから寒くなることを展望に入れたスピードも考えて電車で行く。
金縛り明けの朝、ぼくは東京駅でしゅんちゃんと別れた足で、鈍行で黒部に向けて出発した。
約10時間の列車の旅。
黒部の宇奈月に着き、清河邸に着き、夜は清河さんが好きなコーヒー飲み放題in24時間のファミレスで深夜まで二人でしゃべり続けた。
こうしてぼくの清河邸での生活が始まった。
清河家は若者が勝手に集まってくるところらしく、登校拒否の人から未来へ向けてがんばっている人までいろんな人を受け入れていて、正月や夏休みなどは若者の飲み会の場と化すとか。
なんだか夢有民牧場と近いものを感じる。
芸術家というものは似たようなにおいを発する。
いや、それはぼくが引き寄せているとも言えるし、ぼくも同じ穴のむじななのかもしれない。
清河さんにとっては、だからぼくのようなものがお邪魔することは日常茶飯事であり、気軽にぼくに電話をよこしたのだろう。
ぼくは清河邸の2階の部屋をあてがわれた。
もう成人して東京にいるお子さんが以前使っていた部屋なのかもしれない。
お子さんもクリエーターだそうだ。
清河さんとしては、雪が降る前にストーブに使う薪を作りたい。
それまでに薪にする丸太を運んで割らなければならず、腕をけがしてできなくなったため、こうしてぼくが呼ばれたということなのだ。
薪ストーブがあるお家。
それ自体がすごいのだが、富山と言えば雪が深い地域だ。
雪と向き合う生活。
それはぼくには新鮮で、そこに関われるということがわくわくした。
ぼくの清河家での一日は、昼12時におきて、薪割りや丸太運びを夕方までやり、晩御飯のあと二人でガストに行き、ドリンクバーのコーヒーをはさんで明け方まで語り合う、という感じだった。
薪割りは、まずは五十本は超える丸太をトラックに積んで自宅に運ぶことからはじまった。
丸太は直径約30センチ、長さ約2メートル。
めちゃくちゃ重いけどもちろん素手でトラックに積んでいく。
夢有民牧場で働いていなかったら無理だろう。
これをだいたい3~4日かけてトラックで何往復もして運んだ。
全部運び終わったら作業室に入るだけ丸太をチェーンソーで切っていき、それを斧でどんどんわっていく。
チェーンソーも斧も牧場で少しは使ったことがあったが、今回は本格的だ。
清河さんは丁寧にやり方を教えてくれた。
まずチェーンソーは刃の根っ子の部分を使って切っていく。
チェーンソーは先の方を使うのかと思っていたが違う。
テコの原理を使って、チェーンソーの根っ子のところに木が当たって歯の負荷が木にかかり切ることができる。
何度も切りまくったので、一回自分の足先を切りそうになったが、スニーカーが少し破れただけですんだ。
当時はまだあまりメジャーではなかったDIESELの赤いスニーカー。
旅をともにしてきたスニーカー。
ちょっと残念だったが、でも怪我も勲章である。
それに、これくらいならまだ彼(靴)はぼくと旅を共にしてくれそうでよかった。
難しかったのは薪割りだ。
チェーンソーで30cmくらいの長さにした丸太を斧で割る。
斧を振り下ろして丸太にヒットさせなくてはならない。
これは誰もが初めからできるわけではない。
まっすぐ力をこめすぎずに、重力を使って軌道を素直にし、その重力の力を使って刃をおろす。
日本刀もそうだが、上から切り下すとき、「切る」のではなく、むしろ「まっすぐおろす」という方が感覚としては合っている。
重力の力を上から押してサポートするという感じだろうか。
しかも上になる利き手の「右手で打つ」というよりも、「左手で下に押す」という感じか。
野球のバットも右打者は右手ではなく左手で振れと言われる。
共通の技術だと思う。
また、薪割りは割れた時に刃が足の方まで振れてくるのでそこに足を守るためのクッションになるものが必要だった。
それは余った丸太でよいのだが、これがないと勢いよく割れた時に刃が足に当たってしまう。
ぼくもそうなりそうな時があった。
こうしたことはやはり経験者から教わらないと分からない。
興味本位で未経験者だけでやることはやはり危険だ。
ぼくは少し牧場でやっていたので上達するまでの時間は短かった。
でもこれはまさに修行。
うん。修行好きなぼくにとってはなんとも幸せな日々である。
清河さんは、
「おれは世界で5本の指に入る芸術家だ。君が世界中旅しても10人に会えるかどうかという感じだ。」
などと平気で豪語するし、ちょっと意味が分からないのだが、その清河さんは、自分の薪割りの腕を「プロ級だ」と自賛していた。
その清河さんにぼくも「プロ級」に認定していただいた。
それと丸太運びすら技術が必要だ。
重い物を持つということも体の使い方がある。
これも清河さんに教わった。
こうしてぼくはまたさらに筋力がアップした
そんな修行の日々の中、一度台風が来てしまった。
「台風が去ったら晴れるだろうから立山に連れて行ってあげる。」
と清河さん。
(台風一過ってそういうことかあ。山登りをする人たちはそういう日を狙って登山をしているんだなあ。)
二人で立山へ。
その時期はちょうど紅葉で、しかも年に一回しかないといってもいいくらいの素晴らしい空。
山肌が秋の色になっていて、美しい。
こんな美しい山肌をぼくは初めて見たのだった。
頂上に着く。
「年に3日しか見られないと言われてるんだよ。今日は見えるかもよ。」
そう清河さんは言う。
何のことかというと、立山から見える富士山のことだった。
「え!ここから見えるんですか?あ、もしかして見えるかも。見えます見えます!」
日本海側から、日本列島を、日本の屋根を飛び越して太平洋側の富士山を見る。
うっすらと、でも確かに富士山の形だ。
(そんなことあるの?)
「おれはこないだあそこに登ったんだな」と思うと神秘的な景色が余計に感慨深いものになった。
富士山にもいいタイミングで登ったものだ。
帰りには清河さんがアケビを採りに行こうと言い出し、宇奈月の山へ連れて行ってくれた。
田舎で育った人々は子供の頃は山へ遊びに行くので、きのこや果物など山については、いや自然については詳しい。
都会で育った現代っ子としてはとてもうらやましいし、その時代というものに嫉妬を感じる。
この時期はたくさんの人が山に来ているので、それと二人とも疲れていたので、結局アケビは少しとれただけだったが、アケビはうまかった。
つづきはまた来週