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第90話 問題を抱えていない家庭なんてあるのか?【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】

香川のお二人は親父のいる廿日市市地御前まで乗せてくれた。
 
毎度のことだが、ヒッチハイクでこんなに乗せてくれるなんて本当にありがたい。
 
そしてぼくは行きと同様、また数日間親父の実家にお世話になった。
 
旅中の親父との2回目の生活。
 
前回と違うのは、黙って旅に出てしまった気まずさはもうないということと、前回立ち寄ったことで長年のわだかまりが少し氷解しつつあるということだ。
 
あと、この親父の実家に泊まれるということ自体が実はぼくには密かな喜びでもあった。
 
小学校時代、毎年夏休みにいとこたちと一緒に遊んだ思い出がよみがえる。
 
おばあちゃんは早くに夫を亡くしていたのに、男3人の子供を育てながら孤児院をこの家で始めた。
 
そして神父様をいっしょに住まわせ、その神父様と二人三脚で歩んでいった。
 
いとこたちとこの家に泊まると、決まってその神父様のミサをこの家で受ける。
 
おばあちゃんがカトリックに改宗したから、その子供の親父たちも、うちら孫たちもみんな幼児洗礼を受けていたし、ミサは特別なものではなかったのだが、
 
「チチト コト セイレイノ ミナニヨッテ アーメン。」
 
という神父様の日本語がヘンテコすぎて、笑いがこらえきれずよく親父たちに怒られていた。特にいとこたちは爆笑していた。
 
いや、あれは今聞いても笑ってしまうかもしれない。
 
言語的なものなのか、権威的なものなのか、時代的なものなのか、はたまた神父様の能力的な問題なのか、日本語をあまり上手に話せないのはきっとそのすべてだと思うが、最近はあのような日本語を話される神父様は少ない。
 
その神父様ももう亡くなられてここにはいない。
 
あれからだいぶ時は経った。
 
いとこたちはどうしているだろう。
 
うちの親父は末っ子だったから、末っ子に生まれた末っ子のぼくはいとこたちの中でもかなり年下だった。
 
ぼくが生まれる前は親父たち兄弟も若かったから、いとこの3家族が集まることも多かったようだ。
 
でもぼくが小学生になったころはいとこが集まるのは夏休みの広島くらいしかなかったし、親父の2番目のお兄さんの家族との2家族しか集まらなかった。
 
そしてそのいとこたちは5人兄弟であり、キャラも強烈だった。
 
蒲田行進曲を替え歌して、
 
「けーつのーあなに わりばしーつめて ぐーるーぐーるまわすー」
 
と歌っていたり、ちょっとストレスのあることがあると、
 
「漢方胃腸薬!」
 
と叫ぶ。
 
この強烈な個性を持ついとこたちと一緒に過ごした広島の思い出は、とても貴重な、キラキラした思い出なのだ。
 
その夏休みの広島行だって中学生になればもう集まることもなく、それからいとこに会ったのは1,2回しかない。
 
いとことの関わりの深さや親しさには、結構個人差があると思う。
 
家が近くてしょっちゅう遊んで、兄弟の様に育って、大人になってもよく付き合いがある人もいるだろうし。
 
小さいころはよく遊んだけど、大人になって住むところも変わってなかなか会わなくなったけど、でも田舎に帰った時はよく会うとか。
 
そもそもいとこがいないという人もいるだろうし、いてもすごく疎遠な人もいるだろう。
 
大人になって財産問題でもめているという人もいるかもしれない。
 
我が家は母方にはいとこはいない。
 
父方には親父の1番上のお兄さんとこのいとこは東京に、2番目のお兄さんのとこのいとこは千葉にいるから、それほど集まりにくい距離ではない。
 
でも、親父は年の離れた末っ子だから、1番上のおじさんとこのいとこは結構年上なのだ。
 
ぼくより3人ともが10歳以上上だ。
 
だからかなり接点はない。
 
いやでも、それはぼくの思い違いかもしれない。
 
年が離れていたって結構仲良しないとこだっているのだから。
 
あとでだんだんわかってくるのだが、いとこたちは人生にかなり苦労していた。
 
このぼく自身、人生につまずいて、もがいて、歌をはじめて旅に出ている。
 
ある意味これは常識から考えたら人生が破綻したとも言える。
 
そういうぼくの立場だからだれかを卑下しようという思いはまったくない。
 
ぼくから見たところ、いとこたちはあきらかに人生につまずいていた。
 
当然家族内もおだやかではなかったはず。
 
いや、世の中少なからずくさっている。当時の20代の若者は、はロストジェネレーションと言われた世代だ。就職も難しいし、将来が見えない若者があふれた。
 
いまだに40代で仕事がない人がいるのはその名残の一つでもある。
 
それまでの古い価値観で子育てをしてきた団塊の世代の2世が、バブル崩壊前後の混沌とした時代を下からみすえたとき、その親たちの見て来た世界観とはなかなか相容れない。
 
世の中を動かす大人も社会も、何が起きているかわからないまま、ずれを感じ矛盾を感じている若者たちを今までの価値観でしばり、それにはまらない者をはじいた。
 
やりたいこととやらされることとの折り合いはどこにあるのか。そこに横たわる親から欲しい愛と親が与えたい愛とのずれ。
 
自分のアイデンティティを探し続け、自分も親子関係も壊れていく。
 
ぼくのいとこたちは見事にその時代のはざまにはさまり、みんな人生にもがいていた。
 
だから年令の差で疎遠になったというよりも、そういう家庭内の難しさや本人の難しさもあってぼくたちいとこは疎遠になったとも思っている。
 
実際、
 
「今は会わない方がいい。」
 
と親父に言われたこともあるくらいだ。
 
いとこに会いたいのに会えない。そんなもどかしさを何度も感じていた。
 
そしてぼくはぼくで今人生からドロップアウトし、そのせいでむしろ逆に我が一族の原点である広島に顔を出した。
 
偶然とは思えない。
 
ここに来ているということ自体が特別なことをしていると感じたし、実際そうだった。
 
ぼくらいとこたち世代がみんなうまくいってないと聞いていたある時、ぼくは兄と二人でこの一族を立て直そうと誓ったこともある。
 
みんなうまくいってないけど、おれたちは盛り立てて行こうという思いをぼくら兄弟は持っていた。
 
だからここに来ることにはちょっとした運命やほこりみたいなものも感じていたのだ。
 
なかなか孫たちに会えないおばあちゃんとしては、ぼくが放浪の旅の最中に立ち寄ったとしてもきっと喜んでいるにちがいなかった。
 
耳が遠くてほとんど会話にならなかったし、ぼくが何をしているのかもあまり理解していなそうだったが、何かぼくにメッセージを伝えたそうだった。
 
そして、もう一つここに来たい理由があった。
 
それは、この家が取り壊されてなくなるということだ。
 
親父とおばあちゃんの二人で暮らすにはあまりにも大きい家なのは確かだった。普通の家の6区画くらいはある。
 
かつて何人も孤児の方が育っていった家。使われなくなった建物や部屋がかつてのにぎやかさや戦いを彷彿させるし、さみしさを掻き立てる。
 
でも感傷にひたっているばかりではいけない。維持するお金もばかにならない。
 
それは仕方のないことなのだ。
 
(でもなあ。)
 
そう思って親父に残せないか言ってみてもまったく取り合わない。
 
親父はその辺はドライだ。異常なまでにお金にこだわる。築200年だから何か残そうとかそういうことは考えない。
 
(まあ、仕方ない。けどこのタイミングでおれがここに立ち寄ることになったのはやっぱり意味があるんだと思う。いろいろ目に焼きつけておこう。)
 
そういう思いもあってぼくは2回目の滞在をした。
 
しかも、今回ここを去ったら、もう2周目に立ち寄ることは考えていなかった。2周目はランダムにまわろうと思っていたからだ。
 
だから、今回がこの家を訪れる最後だという思いであった。
 
ぼくはなるべく親父が話すことに耳を傾け、親父も親父でその辺を意識した話をしたし、関係のあるところにいろいろ連れて行ってくれたりした。
 
数日ここにお世話になり、ぼくは廿日市の家を出た。
 
さようなら広島の家。

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