見出し画像

第142話 くも膜下出血で開頭手術した兄貴は死ぬもんか【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】

東京滞在中、ぼくは兄を海へ連れて行った。

兄はサーフィンが好きなので、ストレス発散に時々海へ行く。

ぼくが連れて行ったというのは、兄は車の運転ができないからだ。

兄は癲癇(てんかん)の発作を起こす可能性があり、車の運転を控えている。

一人で電車で行くこともあるのだが、誰か運転できれば車で行けた方がはるかに楽だ。

ぼくはこのころ東京にいることが多かったから、兄にお願いされてよろこんで運転手役となった。

癲癇。

生まれつきの場合もあるが、兄の場合は後天的なものだ。

兄は大学生のころからよく茨城でサーフィンをしていた。

ある日友達と茨城でサーフィンをしていると、

「“:~!&*^(^&%$・・・・」

「おいなんて言ってんだよ!」

兄がしゃべっていることが意味不明なことに友達は気づいた。

「病院行った方がいいよ。」

一つ目の病院でCTをとってもらったが異常なし。

その病院から帰ろうとしたところ出口で嘔吐。

救急車で別の病院へ。

くも膜下出血。開頭手術。

一命は、とりとめた。

しかし、後遺症として癲癇が起こるようになってしまった。

また、言語的な困難さも残った。

リハビリは壮絶だったそうだ。

言葉が思うように出ない。

しゃべろうと思っても出ない。

やっと出たと思ったら思っていることと違うことを言っていたり、スピードが遅すぎたり。

うまく会話ができるまでのリハビリは死んだ方がましだったというほどつらかったそうだ。

ぼくは当時高3だったか。

兄が倒れたことを聞いた親が、緊張してあわてて茨城に向かったのをおぼろげに覚えている。

ぼくはその時は家に残された。

学校もあったし、親としては現地へ行って状況を見て必要なら—本当に命があぶないなら—ぼくを呼ぼうと思っていたのかもしれない。

それに茨城に行って帰って来たらこっちに何時に戻って来られるのか分からない。

状況によっては泊まって来ざるを得ないかもしれない。

親はぼくに兄の大変な状況を見せたくないという思いもあったのかもしれない。

ぼくはそばにいられなかったが、手術は一応うまくいった。

山を乗り越えたので、術後に急いでぼくを連れていく必要はなくなったし、兄の術後の状態としてまだぼくが行ってもできることはなかったのだろう。

ぼくが兄のもとへ行ったのは、それから数日後だった。

ぼくは気持ちがふわふわしていた。

「助かってよかったあ。」

という気持ちと、

「なんか実感がわかない。」

という気持ちと。

普通に日常生活が送れている自分と、そうじゃいけないんじゃないかと思う自分と。

なんだかものすごく落ち着かないのだ。

この頃のぼくはおそらく人生で一番心を閉ざしていた時代だと思う。

受験校に通い、まわりの雰囲気に惑わされて「医者か弁護士になりたい」とほざいていた。

後で分かるのだが、そんなのはぼくの本心ではなかった。

自分の心に気づかず、頭で人間を、人生を考えていたと思う。

人生とは論理的に頭で、理窟で考えて答えを導き出すものと考えていたと思う。

いや、考えていたというほど自分で自分を理解していたわけじゃない。

選択してそうなったのではない。

ただそうならざるを得なかった。

なにも分からない。どうしていいか分からないただの未熟な少年だ。

おそらくぼくが頭でっかちになっていったのは、恐怖感が根底にあるからだ。

ハートの弱さを自分が一番よく知っていたからどうしても論理武装をする。

間違えないように理窟に偏る。

だから「人を救いたい」=「医者になりたい」「弁護しになりたい」となる。

それ以外の選択肢など想像もつかない。

まさか当時は音楽をやるなんてつゆほどにも思っていなかった。

今思えばそれが本心だったのに。

そういう心を閉ざした時代に兄が倒れたのだ。

(兄貴が大変な目にあっているのに、もっと身に迫る思いが湧いてこないのか?「いいからおれも病院に連れていってよ!」と言って、強引にでも見舞いに行くべきなんじゃないか?なんでこんな冷静でいられるんだ?)

たった一人の兄を失うかもしれないのに、ぼくはリアルに感じとりきれていない自分に不安を感じていた。

もっと取り乱してもいいのに、意外と普通でいられた。

だから自分が軽薄な人間なんじゃないかという怖さを感じていた。

でも、自然に湧き上がってこない感情を頭で考えて湧き上がらせようとしたとて、出てくるものではない。

たとえそういう気持ちが出て来たとしても、自然に湧き上がってこないことが問題なのだ。

ぼくは兄とは5つ離れている。

兄はもう23歳の大学生で、家に帰ってくることは少なくなっていたから、普段顔を合わせることはあまりなかったし、ロン毛、金髪のサーファーという感じで、文化的にもだいぶ手が届かなくなっていた。

だから身近で日常的な存在ではなくなっていたのは確かだった。

しかも茨城というぼくの当時の生活圏からするとかなり離れている場所で起きたことで、ぼくの想像力が及んでいないのも事実だった。

倒れた日に茨城に行けなかったというものうしろめたさを募らせた一因だろう。

一方で、実はもう一つの感情がぼくを占めていた。

それは、「お兄ちゃんは今は死なない」という根拠のない確信。

親は取り乱していたが、ぼくは正直大きな危機感を感じていなかった。

「まだ死なない、死ぬわけない」と勝手に思っていた。

もちろんそんなことは口に出して言えなかったが。

冷静でいられたのはそれが根底にあったからかもしれない。

ぼくが兄のいる病院へ行った日。

まだリハビリは進んでおらず、兄はまだしゃべれない。

すごくもどかしそうだった。

表せるのは表情だけだ。こっちをまっすぐ見てくれた。

そして笑顔を少し出してくれた。

いや、それはものすごく頑張った笑顔だった。

きっと笑顔を出すだけでもものすごくしんどかったのだろう。

それでも笑顔を出そうとしてくれる。

兄は長男らしい長男で、決して自分のしんどいところは見せない。

それでいて、優しい。

正直自分とはちがう考え方をするから、意見がぶつかって腹の立つこともあるけど、兄のそういう優しさをぼくは知っている。

病室で、ぼくはどきまぎした。

よそよそしくなる。

(何て言ったらいいんだ?)

そんなことをまた考える。

「大丈夫?」

その一言しか言えない。

もしいろいろしゃべったとしても、きっと兄は答えようとして、でも答えられなくて苦しいだろう。

だから下手にいろいろ話しかけられない。

ましてや「がんばって」なんてことも言えない。

(おれが行くことで少し元気が出ればいいな。)

ぼくはそう自分に言い聞かせ続けた。

そして短い面会を終え、ぼくは両親とともに東京へ帰った。

兄の顔を見て、ぼくは確信をさらに強めた。

(やっぱり、兄貴はまだ死なない。)

つづきはまた来週

いいなと思ったら応援しよう!