シドニー・スミスの語り『ぼくは川のように話す』
私の蔵書の中に特別な位置に飾られた絵本がある。ガラステーブルの収納スペースに置かれた、まばゆい光を放ち波音轟く装丁をしたその絵本の名は、『ぼくは川のように話す(原題:I Talk Like A River)』である。
カナダの詩人ジョーダン・スコット(文)と絵本作家シドニー・スミス(絵)による共作で、日本では2021年7月に原田勝の訳によって偕成社より出版された。本稿では『ぼくは川のように話す』を取り上げ、シドニー・スミスという作家の〈語り〉に注目する。
シドニー・スミスの語り
シドニー・スミスは1980年、カナダ、ノヴァ・スコシア州郊外に生まれた絵本作家だ。彼はコラボレーションを得意とし、2010年に絵本作家デビューを果たして以降『この まちの どこかに(原題:Small in the City by Sydney Smith)』を除く全ての作品は、文を書かず絵のみを担当している。彼は、自分の人生から物語らない。シドニー・スミスの作家性は、〈ショットの決定力〉にあるのだ。私は彼の絵を、敢えて映画の最小単位である〈ショット〉に例え賞賛したい。
「ショット、それは運動イメージである。」と哲学者ジル・ドゥルーズは述べた。運動は「二つの瞬間あるいは二つの位置の間のなかでおこなわれる」。そのため、絵本の見開きのように動かない諸「切断面」によって運動を再構成することは出来ない(ドルゥーズ, 2008, 4)はずなのにも関わらず、私はスミスの絵から運動を感じてならない。彼の絵が動き出すのはどうしてだろうか。絵が動き出すことで何が起こるのだろうか。
ーあらすじー
学校では、毎朝ひとりずつ世界でいちばん好きな場所について話すことになっている。当番が回ってきた吃音をもつぼくは、みんなの前に立つと全く言葉が出てこなかった。放課後、父親はぼくを静かな川へと連れて行き、二人は岸を歩き、川を眺める。今朝の出来事を思い出すぼくに「ほら、川の水を見てみろ。あれが、おまえの話し方だ」と父は語りかける。その言葉によって心のわだかまりが解けたぼくは、次の日の朝、みんなの前で話し始めた。
物語は、家と外で区別すると、第一幕:第一場面(家)、第二幕:第二場面(学校)、第三場面(川)、第三幕:第四場面(家)の大きく分けて三幕構成となっている。第一場面は、あらすじ以前の状況説明にあたる。本作品は圧巻のクライマックスが印象に残るが、〈ショットの決定力〉の真髄を見ることができるのは、この第一場面だ。第一場面のショットは以下のようになる。
第一画面、「朝、/目をさますといつも、/ぼくのまわりは/ことばの音だらけ。」という文を挟むようにして、ぼくの部屋は6分割に描かれる。カメラは床に向けられ、窓際に飾られたオブジェをクロースアップで捉えると、後ろを振り返り、ぼくの目元に接近する。
(▲第一画面)
第二画面、カメラはぼくの背後に回る。
(▲第二画面)
第三画面、POV(主観)ショットに切り替わり、窓から見える景色を明らかにする。第四画面は、3つのショットで構成される。左ページ、ハガキサイズの2枚の絵は、ぼくが着替える様子をハイアングルショットで、洗面所で歯磨きする姿を窃視するように捉え、右ページ一面を使いロングショットの距離からぼくが朝食をとる様態を捉える。
物語全体はおおよそ24時間の出来事であるから、朝目を覚ましてから家を出るまでの短時間が非常にゆったりと描かれていることが分かるだろう。状況説明にあたる第一場面は、決して説明的にはならず、カメラが距離と方向を自由に変えることで、孤独な苦しみを抱えるぼくの佇まいを感情、行動、知覚、あらゆるイメージで描き、読者の想像を促す。読者は、リリカルな文と共鳴を起こす絵のリズムに同調し、動き回るカメラと一体化を始め、静止した虚構平面の時空間へ漂流を始めるのだ。つまり、私が抱いた運動イメージは、肉体だけでなく空間そのものと読者の視線とが動き続けるよう働く〈カメラ(視点)〉の運動によるものだったのだ。画力、被写体に向けるカメラの位置、見開き内の絵と余白の大きさ関係、それらすべてが完璧であるかのように思わせ、動き続けるカメラと読者の意識を同一化し、読者を絵本世界の住人にしてしまう力、これが〈ショットの決定力〉なのである。
第二場面、ぼくの感情の起伏に合わせ、カメラは焦点を失い、ぼくの空想に入り込み、ますます運動軸を増やす。父に連れられた川に移る第三場面では、ぼくの表情を追うことをやめ、遠い位置から「世界でいちばん好き」になるこの場所の光景を堂々と描く。また、リズムを揃えていた読者と文と絵に、ページのリズムも共鳴を始め、第六画面で第三画面の景色が、第十三画面では第一画面と同じ分割が反復される。そのように重なり合うリズムの波を可視化するようにして物語にも決定的瞬間が訪れる。「ほら、川の水を見てみろ、あれが、おまえの話し方だ」父の言葉を受け取ったぼくが目を閉じると、曇天は一転し光が差し込む。
(▲第十四画面)
そこに待ち受けるのは、言葉を失うほど美しい観音開き。閉ざされたぼくの心の扉を最後に破る者は、読者自身なのだ。以降、見開き5枚を使って一瞬のぼくの内的状態が描かれる。限られたページ数の半分をこの場面と第一場面に使うスミスの思い切りの良さと、大切な風景となる川や観音開きという明らかなクライマックスを真正面から描く自信に、私は感服した。
第四場面、カメラがイマジネーションから戻り現実を映す最終見開きは、すでに朝を迎え、「ぼくは川のように話す」と書かれた壁の張り紙が生まれ変わったぼくを静かに提示する。
『ぼくは川のように話す』は、吃音の主人公がたった一言に出会う体験を描いた生まれ変わり譚だ。たとえそれがジョーダン・スコットの個人的な経験を出発点にしていようとも、読者は自身の内にある静寂な言葉-声にならない言葉、御守りにしている言葉-に目を向け、自身の精神世界を開く体験をするはずだ。動くイメージは眼前に起こる出来事を他人事では終わらせてくれないのである。
以上、シドニー・スミスの作家性を〈ショットの決定力〉として見てきた。それは、完璧な位置置かれた動くカメラと読者の意識が一体化し、文と絵とページと読者のリズムが共鳴を起こすことで、静止した平面が立体的に動き出す力であった。『おはなをあげる(原題:Sidewalk Flowers)』からすでにその力を発揮している彼は、本能的な感覚として〈ショットの決定力〉を備えているのではないだろうか。コラボレーションという形式で文と物語に花を添える作家が、今後どのようにして「おはなをあげる」のか期待したい。
ー参考ー
ジル・ドゥルーズ(2008)『シネマ1*運動イメージ』法政大学出版局
蓮實重彦「映画の「現在」という名の最先端ー蓮實重彦ロングインタビュー」https://kangaeruhito.jp/interview/14526 2021年12月22日アクセス
アーウィン・パノフスキー(原)出口丈人(訳)(1982)「映画における様式と素材」フィルムアート社
※偕成社より画像の使用許諾を得ています
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