言葉を「繋ぐ」「紡ぐ」ということ
文章を書くことが好きだ、あくまでそれなりには。
noteを始めたのも、日記形式で何か残したかったからだった。
だがそれを毎日続けていくということはとても難しい事である。
ネタがない・書くことがめんどくさい・他にやることがある。
大いに結構だ。別に強要されるようなことでもなし、ただの趣味だからだ。
このくだらない文章も一応自分なりに推敲して、人様が見てある程度理解していただけるように世に送り出している。
「読んでもらうため」に書いているわけではない。
読んでもらいたい文章を書く時もある。
けど、なんか違うんだよなって。
Twitterだと文字数が決められてるからきちんとまとまるように書く。
なるべくわかりやすいように書く。
わかりやすいように書く=自分が書きたいことではない。
わかりやすいように、はあくまでも他者への配慮である。
自分が書きたいように、は自分本位。
自分が書きたいように書いた結果、人が読んでもわかりやすい文章になる人、または人が読んだとき、理解しやすい文章を書いたら自分が書きたいことにもつながった、という人は非常にうらやましい。
志おんの場合趣味で書いているので、完全に後者でもいいわけだが時々誰かに聞いてほしいことがあるときは前者のような書き方をするより他ない。
人に読んでもらうというのは思った以上に大変な作業だと改めて思い知る。
たとえそれが、メールの世界であっても。
メールの世界の方がもっと大変だ。
何故なら相手一人に向けて伝えたい言葉を発しているわけで、不特定多数ではない。
Aさん→言ってることがわからない
Bさん、Eさん、Fさん→おおよそ理解できた
Cさん、Dさん→理解できた
ではなく、Aさんだと会話しているのに、Aさんに確実に理解してもらわなければ話が繋がっていかない。
逆にこちらもAさんの言いたいことをくみ取れないと、コミュニケーションンがブレイクして踊る羽目になってしまうワケだ。
先日「日本語自体がメッセージアプリに向いていない、日本語というのは言葉だけではなくその場の空気や状況、文脈も含めて判断するもの」という話を聞いて、なるほどなと感じた。
人生、いつでもコミュニケーションブレイクダンス。波は荒れるばかりハイ残念。という結果を迎えないように。
人間の文明がここまで大きく発展し、貢献してきたのは間違いなく文字と言葉のおかげである。
進化と銘打ってここに存在する言葉。
本当にそうなんだろうか。
進化しているようで、実は退化しているのかもしれない。