小説 ホワイト・トラベリング
新幹線から見える街の夜景には雪が降っていた。私は小説を読む合間にその景色を時々眺める。
今は東京には戻りたくなかった、あらゆる場所が失った恋を連想させてしまうから。
とは言ってもいきなり海外旅行はお金も勇気も無い。それならばと、この小説の行き先にもなった、佐賀県の嬉野温泉に行こうと思ったのだ。
通路側の席に、黒いハットにスーツ姿の男性が座った。肩まで伸びている彼の黒髪が揺れる。どこかクラシカルな印象だった。
私は本越しに、男性の横顔をそっと見つめた。
すごく格好いい人だと思った。失恋したというのに、ずいぶんと惚れっぽい事だと少し自嘲的な気持ちになる。
不意に彼がこちらを振り向いた。慌てて目線をそらす。男性は微笑み、口を開いた。
「おや、お嬢さん。その小説は羊 達也の【夜行列車】ですね。懐かしい……!」
「あっ……はい! 貴方も読んだことがあるんですか?」彼が私の好きな本を知っていた事が嬉しくて思わず声が上ずってしまった。
「愛おしい作品ですね」
羊 達也は昭和初期に活躍した小説家だ。若くして亡くなったが、令和となった今でも人気は高く、特に女性の愛読者が多い。
私も中学生の頃から彼のファンで、特にこの【夜行列車】は読むのは十回目になる。
「私も大好きなんです。病気で死が迫る主人公が最期に夜行列車に乗って恋人に会いに行くストーリー。すごく切なくて……エモい! ですよね」
「エモい? それは西洋の言葉ですか?」
不思議そうに首をかしげる男性。若そうに見えたけど、世俗には疎いセレブな人かもしれない。
「えっと、英語でエモーショナルって意味です」
「なるほど、情緒的ということですね。いやあ言葉もずいぶんと変わったものです」
男性は感心したような声を出し、背広のポケットから手帳と万年筆を取り出してエモイ、情緒的と書いた。どちらもレトロなデザインでその様子を見た
私はホッとする。私もレトロが好きだ。
世界と私の周りは万華鏡みたいに変わっていって。少し前に買った自分のアイフォンは二つ先のバージョンがもう発売されていて、この前まで飲めなかったお酒が飲めるようになって、大学の友達だった人は恋人になり、そして元カレになった。あまりに目まぐるしい変化についていけなくなった私は、小学生の頃から読んだ、変わる事のない名作小説のページを開き、私が生まれる前からあるという温泉旅館を目指している。
私はきっと今、変わらないもので安心したいのだ。
「私、これから嬉野温泉の和多屋別荘って温泉旅館に行こうと思っているんです」
そう言うと、男性は柔らかい笑みを浮かべた。
「それはいいですね」
「失恋旅行なんです。彼氏から他に好きな人がいるって言われたんです」
男性に背を向け、窓の方を眺めた。
雪は相変わらず降り注いでいる。
「変わっちゃったんです、ほんとうに、すごく簡単に……私、すごく嫌でした。どうせならもっと他の理由なら良かった」
窓を伝う雪のように私の涙も頬を落ちていった。
「お嬢さん」
振り向くと男性はハンカチを差し出していた。白い藤の花が刺繍されている。
「……ありがとうございます」
受け取ると彼は懐かしむように話し出した。
「恋人とは遠距離恋愛だったんです。あの日、僕は彼女とその旅館に待ち合わせの約束をしていたんです」
「旅館で待ち合わせ?」
「事実は小説より奇なりというのは実は嘘で、僕はそこに行けなかったんですよ。約束した数日後、結核に掛かってしまってね」
私は気づいてしまった。彼の話は聞き覚えがある。
「自分が死ぬ事を彼女にはどうしても言えなかった。彼女は激情家で僕の後でも追われたらまさに悲劇としか言えませんからね」
――貴方は、もしかして。
「僕は幸い作家でしてね、言葉に出来ない事も小説になら出来た。その小説には恋文と別れの意味を込めて」
「貴方は……羊達也さん?」
男性はその問いには答えず微笑んだ。
「結末は変えられます。だけどお嬢さんが愛し、愛されたという事実は永久に不変ですよ」
【――終電、終電です。どなた様もお忘れ物がないようご注意ください】
車内アナウンスが聞こえた。ハッとする。私は隣の席を見たが男性の姿はどこにも無かった。
「……夢?」
私は不思議な気持ちのままマフラーを巻き、電車を降りた。雪はもう降っていなかった。冷たい風が心地いい。目の前の柱に【小説、夜行列車の聖地】と書かれたポスターが張ってあった。白い藤の花に囲まれた作者の写真は、電車で出会った人物と同じだった。夢? 幽霊? どちらかは分からないけれど、もしかしたら……。
「私を元気づける為に来てくれたんですか? ――ありがとう、最高の旅になりそうです」私はポスターに軽くお辞儀をした。そして旅館を目指し歩き始める。
恋人に逢いに行った小説家の顔を思い描きながら。