生きづらい私(あなた)へ

特に、悲惨な過去もない。障害もない。普通の人と変わらない。と思う。

なのに、生きづらい。でも、言えない。だって、私より辛い経験をしている人はたくさんいるから。そうやって、我慢してきた。

でも、そうじゃないはず。私だって、辛いんだ。声を上げたいんだ。

なぜ、私が生きづらさを感じるようになったのか?半生を振り返りながら考えていきます。
きっと、普通の人である私、そしてあなたが生きづらさを感じるようになった理由も、見えてくるんじゃないかな。
悲惨な過去、経験がなくたって、絶望することはあるんだ。私は、それを声を大にして言いたい。同じ悩みを抱えている人がいたら、支えになりたい。少しでもこのnoteが励ましになったら嬉しいです。



<幼少期〜小学校>

1歳の時に両親が離婚。私は母、祖母と暮らすことになった。
一人っ子で、母子家庭。当然ながら、一人でいる時間が長い。一人遊びが好きだったし、一人が当たり前だった。

父は家が近いので、頻繁に私に会いに来た。最初、母は追い返していたものの、折れて会うのを許すようになったらしい。
父はずっと資金面での援助をしてくれていて、大学の費用、生活費、全て出してくれていた。おもちゃやゲームも沢山買ってもらった。
ありがたいことのはずだ。でも、私は父を「お金をくれる人」だと認識してしまっていた。お金の面ではいくらでも頼れる。でも、それ以外はてんで話にならない。そう思っていた。
捻くれ者の私は、「離婚して迷惑かけたんだから、これくらいは当たり前だ」「父は金で私を懐柔しようとしているだけだ」なんて思い込んでいた時期もあった。そんなわけがない。これだけの額、普通は出せない。感謝すべきなのだが、素直に出来ない自分もいる。

保育園や小学校では、結構周りと仲良くやっていた。無邪気だったからだろうか。

小学校3年生の時、車に轢かれた。幸い、特に後遺症は無い。前歯の永久歯が折れたことくらいだ。去年、その被せ物が取れて、治療のために33万かかったのには驚いた。
轢かれたのは、私の不注意によるものだ。友達と遊ぶ約束をしていたから、早く帰りたくて、横断歩道の無い所を渡った。車が来てないかは確認した。と思う。でも、轢かれた。
血塗れで倒れているところを、遊ぶ約束をしていた友人に見られた。恥ずかしかった。
救急車には、担任の先生がいた。私より先に担任を拾ったということか?
ランドセルが身体を守ってくれたおかげで、歯の欠損の他は足の打撲だけで済み、その日中に退院した。23時頃だったと思うのだが、教頭が待合室にいてくれた。母と仲が良く、良い人であるというのは知っていたため、安心した。一生徒のために、わざわざ教頭が出向いてくれるなんて、今考えると結構すごい気がする。

そして、多分この時期。母は鬱病を発症した。どこかで、「鬱病だ」という話を聞いただけで、私自身は母が異常だというふうには全く感じなかった。鬱を発症しながらも、それを悟らせず、私を育て、仕事もしていた母は本当にすごい。
強いていえば、母の友人(仮にAとする)について変なことを言っていたくらい。「Aは自傷行為をして、娘に自分の肉を喰わせてる」って。今思い返してみても、鬱病の症状に当てはまるのはそれくらい。
当時、母はやたらおしゃれだったので、買い物依存の状態にあったのかもしれない。借金もあると聞いたが、この時につくったものなのだろうか。
これも推測なので、断定はできないが。いつ発症したのかもわからなければ、いつ寛解したのかもわからない。鬱病を発症しても、私から見た母は変わらなかった。

小学校5年生の時に転機。夏頃、母が再婚した。再婚相手は暴力的な人だったようで、母は私によく愚痴をこぼした。幸い、私は暴力を振るわれたことは無い。1度、フローリングワイパー的なものを振り上げられたが、母が守ってくれた。ありがとう。
母は妊娠して、子どもを産んだ。しかし、次の夏には離婚し、実家に戻った。あの男が、子をしっかり育てられるのか心配だ。私の生き別れの弟は、今どうなっているのだろう。

家庭は最悪だった。いつまでも異物感が抜けず、落ち着かなかった。離婚する時には母と再婚相手がひどく子どもじみた喧嘩をして、母に連れられ家を出た。父に迎えに来てもらった。父は優しい人だった。

一方で、学校は楽しかった。1クラスしかなく、確か20人くらいしかいなかったが、その分関係が密でとても楽しかった。
前の学校では、学校にいる時以外に友人と遊ぶことは無かった。でも、こっちでは毎日のように遊んでいた。それはもう楽しかった。

転校が決まった時、クラスで私のためにレクリエーションの時間を作ってくれた。お別れ会的なものではなく、ドッジボールや鬼ごっこをするものだった。
今でも覚えているのが、鬼ごっこ。私は、ある女の子と一緒に隠れていた。その子は、男勝りな性格で、まるで同性のように接することが出来たため、仲が良かった。

確か、トンネルのようなところで、2人きりで隠れていた。息を潜めて、ひっそりと。ふとその子の顔を見ると、彼女は泣いていた。嬉しかった。私のために泣いてくれる人がいるなんて。

その後、帰りの会で改めて皆とお別れをした。私は顔がぐしゃぐしゃになるまで泣いた。私は、感情を表に出すのが苦手だった。なのに、めちゃくちゃに泣いた。間違いなく、人生で1番泣いた。この時のような、密な人間関係が欲しい。でも、あのような狭くて濃いコミュニティは、今の時代無いだろう。

実家に戻った私は、元の学校に出戻りした。普通に受け入れてくれて、前の学校ほどでは無いにしろ、それなりに楽しく過ごした。

ただ、1つ困り事が。隣のクラスが学級崩壊していた。先生が生徒にいじめられ、授業にならない。何か騒ぎが起きたら、私のクラスの担任が収めに行く。騒ぎは毎時間起きる。そのため、授業時間のうち、半分くらいはうちのクラスの担任がいなかった。

隣のクラスの先生は、鬱病を発症したらしい。それで、生徒の眼鏡を叩き落としたとか。
当時は何も思わなかったが、異常だ。団結して、小学生が大人をいじめる。
その学校ではいじめが当たり前にあったので、大人が標的になっているのは珍しいと思ったのの、特段何も感じなかった。
その学校には、発達が追いついていない子がたくさんいた。その子達は、いじめの標的になる。だから、いじめはありふれていた。
前の学校とは全然違うはずなのに。私は何も思わなかった。



<中学校>

中学に入って1番最初の時期、私は辛かった。中学は、私がいた学校、A小学校と、もう1つのB小学校の生徒が一挙に集う。人数としては、A小が圧倒的に多い。
それなのに、出席番号順で作る4人グループは、私以外の3人がB小学校だった。私は馴染めず、塞ぎ込んだ。
何かグループで話し合えば、意見を出せと詰められ、言ったら「はぁ」と素っ気ない反応。プリントを回す時も、「愛想ねえな」とぼそりと言われる。
いじめのようだが、まぁこれくらいのことしかないので、冷たくされていたの範囲だろう。
私は、同じくクラスで浮いているような人間達のグループに取り入り、居場所を作った。

成績は悪かった。母に見せると、「塾に行くしかないね」と怒られた。
私は、母が怖かった。昔から、仕事に出ているので顔を合わせる機会が無い割に、会えば怒られる。母の顔色を伺って過ごしていた。

1年の後期、母に怒られたことと、友達を作りたいという理由から、勉強を始める。
成績が良ければ私にも価値が生まれ、構ってもらえると思った。
毎日毎日勉強し、半年も過ぎた頃には学年2位を取っていた。それから、2位をキープし、3年の頭に1位をとった後、勉強をあまりしなくなった。1位をとったし、私に天才キャラが定着して、ある程度周りが認めてくれるようになったからだ。

勉強漬けの代償として、学校の健康診断にひっかかった。カップラーメンと一本満足を食べる生活を続けていたので無理もない。再検査したら通ったので、特に大したことは無かった。

同時に、私は反抗期を迎えた。母と口を聞かなくなり、今までの抑圧への復讐とばかりに強い物言いをすることになった。これは実家を出る高校3年まで続く。

中3になると、私は欲をかくようになった。もっと、良いグループに所属したい。
私は、常にクラスの3軍だった。この時、1軍に行きたいと思った。
だから、必死にクラスの中心人物に取り入った。そして、3軍メンバーとは距離を置き、1人で行動するようになった。あいつらと絡んでいるよりは、1人でいる方が1軍になれる確率が上がると思っていたからだ。当時、クラスには激しく嫌われている人物がいた。これを好機と見て、私はその人の陰口を言いまくった。それを毒舌として面白がってくれたのか、徐々に私は1軍メンバーと絡むことが増えていった。

定期テスト後に食事に誘われ、私は努力が実を結んだのだと思った。
1軍メンバーと過ごす時間は楽しく、勝ち組気分になれた。その時、あるヤンキー少女に告白された。彼女は、小学生の時も告白してきたので、2度目だ。断った。
小学校6年生の時には、もう1人私に告白してくれた人がいた。断った。
女性に恵まれない人生だと思っていたが、振り返ってみるとそうでもないのかもしれない。

楽しかった一方で、私は人間関係を打算で考えるようになっていた。小学生の時のような暖かいものではなく、生々しく冷たいものだと思うようになった。

中3、勉強をあまりしなくなり成績が落ちてた頃、私は親に頼んで塾に通った。
塾は私に合っていなかったようで、成績はどんどん落ちた。おまけに、トイレがとても近くなる病気、心因性頻尿を発症した。
トイレに行ったのに、5分10分でまたトイレに行きたくなる。とても辛かった。症状としてはただトイレが近いだけなので、人に言うことも出来なかった。この症状は、高3まで続くことになる。

結局、冬休み頃に塾を辞め、私は受験に挑むことになった。失敗した。ワンランク下の学校を受けたのに、落ちた。
当たり前だ、塾を辞めた後、そのままあまり勉強をしなくなったのだから。ちょっとショックではあった。
後期、同じ学校を受けて受かった。安心した。

また、中学の時は周りのいじめがより過激になった。ある人は、ストレスで髪を抜き、円形脱毛症になっていた。鬱病で不登校になった人も、数人いた。
私にとっては、それが普通だった。ヤンキーもいれば鬱病もいる。近くに児童養護施設があり、そこから通う生徒も多かったので、家庭環境が悪いのも普通。
そして、私ももちろん普通。そう思っていた。



<高校>

高校は小中と比べるとだいぶマシで、本当に普通の人が多かった。イジメも全くなかった。トイレにメガネを捨てられてる人はいたが、笑いながら拾ってかけていた。本当にこれはいじめではなく、過激ないじり。

高校も、中学と同じように私はクラスの中心人物に取り入り、それなりの地位を作った。1年の時は上手くいったが、2年、3年はダメだった。1.5軍止まりで、1軍にはなれなかった。ずっと打算で作ってきた人間関係が上手くいかなくなり、私は徐々に辛くなっていった。どうしていいかわからなくなった。

「ズレ」を感じ始めたのはこの時からだった。小中がおかしかったのだが、私はそれに適応してしまっていた。だから、高校のような普通の環境に置かれた時、馴染むことが出来なかった。

成績はどん底に落ちたと思う。テスト成績をろくに見ていなかったので、ハッキリとはわからない。ただ、もとより私は友達が欲しくて勉強を始めたのだ。せずとも友達が出来るのなら、しない。まぁさして友達も出来なかったのだが。

でも、それなりに楽しかった。体育祭では、閉会式で目立つために友人と訳もなくグラウンドも爆走し、3年の文化祭では知らない女の子に声を掛けて写真を撮りまくった。良い思い出ではある。

修学旅行は行かなかった。と言うか、心因性頻尿のせいで行けなかった。学校側には素直にこの症状のことを伝えられず、仮病で休んだ。

母に、1度この症状を相談したことはある。母は、「トイレなんか行きたい時にいけばいい」と言った。そう思う。
だから、私は授業中にも行きたい時は手を挙げ、トイレに行った。
ある日、授業中にトイレに行きたくなり、手を挙げた。許可を貰ったため、教室を出たら、笑い声が聞こえた。後で聞いたら、先生が「トイレくらい休み時間中に行っとけ」と茶化していたらしい。
私は休み時間毎に必ずトイレに行っていた。それでも、また催したので行ったのだ。なぜ笑われなきゃいけないのだろう?私はおかしいのか?私は、徐々に心を閉ざしていった。

やはり、高校は普通だった。私が勝手にズレただけだ。

大学受験は大失敗した。ロクに勉強をしていなかったから。受験期は海外ドラマにハマっていて、行きの電車で「ベターコールソウル」を見ていたのを覚えている。「ブレイキング・バッド」だったかな?
そんなこんなで、1校ストレートで合格、2校補欠。ストレートで受かったところに決めた。
補欠の2校は両方繰り上がりで合格した。1校はそれなりにレベルが高いところだったので、本当はそちらに行きたかった。でも、入学金を振り込んでしまっていたため、ダメだった。

おちゃらけていた友人達が、良い大学に受かっていた。私とはレベルが違った。卒業式の日、私は自虐という形でしか大学名を言えなかった。


人間関係も上手くいかない。勉強もダメ。そして、家族仲も絶不調。

私はお年玉を祖母に渡し、私名義の口座に貯金してもらっていた。一人暮らしのため家を出るにあたり、その口座のカードなり通帳なりを渡して欲しいと言ったのだが、祖母は渡してくれなかった。
友人に、「めっちゃおばあちゃんと怒鳴り合いしてたよな」と言われたことがある。人前でも罵声を浴びせ合うほど仲が悪かった私と祖母の関係に、ピシッと亀裂が入った。

金を渡さない仕返しとして、私は祖母の通帳を盗み、隠した。
祖母に殺されるかもしれないと思っていた私は、部屋にバッドを隠した。斜め置きのテレビの裏に、こっそりと。追い詰められていた。

口座の金額は、200万。母に、この金が貰えないんだったら死ぬと泣きながら訴えた。さらに、なんで産んだんだ、中絶すればよかったじゃないか、と本気で叫んだ。心からの声だった。
母は泣いた。その後、お互いに何を言ったのかは覚えていない。母の方から歩みよってくれたため、むしろ前より関係が良くなったように思える。

この時言ったことは、衝動的だけど、ずっと思っていたことだ。言えてよかった、スッキリした。

で、お金はごちゃごちゃしつつも貰えることになった。父が「そんなくらい、最悪俺が渡す」と言ってくれたのが心強かった。

なんやかんやありつつも、私は200万を抱えて家を出ることが出来た。ありがとう。



<大学(現在)>

大学1年の頃、自殺未遂をした。それに関しては別記事で詳しく書いているのでそちらを。


復学した私は真面目に勉強をし、単位をしっかり取っていった。特にここでは何も無い。
いつの間にか心因性頻尿は治っていた。大学は授業中いつでもトイレに出ていいので、環境的に楽だった。そんな私事はありつつも、ただ、それだけ。

復学した私には、何も無かった。今まで頑張っていた「居場所を作る作業」もとっかかりが無さすぎて。人間関係を完全に放棄するようになった。真面目に講義を受けるようになったものの、私の孤独は極まった。
 1度、必修の授業で仲良くなった人がいた。彼は、後期から来なくなった。唯一の綱が絶たれた。

大学入学〜この間、恋人が3度出来た。全員、傷付けてしまったと思う。2人は、私の前で泣かせてしまった。私も泣いた。私は人を幸せにできない人間だと思った。大事に、大事にと思ってるのに、自分のことばかり。
本当に、最低だ。
 


そして、就活。今まで高校、大学受験を失敗してきた私は、就活は頑張ると決めていた。実際、頑張っていたと思う。
私には就活に向いていたようで、ESを書く中で自分がクリアになっていくのが楽しかった。嘘をついてもバレなくて嬉しかった。そんな小さな積み重ねや成長を感じられるという点で、私は就活が好きだった。

なのに、不眠症を発症した。 
面接への苦手意識なのかなんなのか、わからないけど不眠症に陥った。それでも頑張り、最終的には納得のいく内定が得られた。

内定が出たのが3年の2月だったので1年+2ヶ月暇になる。この間は、ひたすらピューロに通っていた。2024年は100回ピューロに行った。ピューロが心の支えだった。多分、2024年は150万近くサンリオで溶かした。このお金は、家に出る前の200万とは別のお金。

その後、2025年に入り、引越しをした。
私は環境が変わるのが苦手なようで、強いストレスを抱えた。物理的にも、手続き的にもやることが多すぎて、押しつぶされそうになった。退去するのに、掃除してなさすぎて、大金の請求が来て。全てが嫌になった。どうせ未来も無いし、死にたいと思った。
こんなことで潰れるなんて、弱すぎるでしょ?
くだらない理由だけど、死にたかった。
ここ最近の話なので、また別記事を読んでください。


<終わりに>

「普通か、これ?」
結構しんどい人生してませんか?私

離婚やら病気やらなんやら。私の人間関係が上手くいかないのも、母のせいなとこあると思うんです。顔色の母親伺ってばっかだったから、他人に対してもそう接してしまう。
逆に、我を貫き通したいところもあって。そうしたら、周りに迷惑をかける、もしくは浮く。ちょうどいいが出来ない。
毒親では決してないけど、放任された子はまっすぐは育てない。

中学〜高校まで心因性頻尿のせいで、他人に理解して貰えない辛さを味わった。地獄だった。時にはオムツや尿とりパットを付けて学校に行った。オムツの時は、バレないようにトランクスを上から履いていた。なんか、パンツでかくね?と言われた時は、凍りついた。
中々人に言えず、勇気を出して人に言っても「たかがトイレ」
たかがトイレのせいで、教室が怖い。電車が怖い。バスが怖い。
周りの人は私を理解してくれない。そんな思いのせいで、私も周りを理解しようとしなくなった。

大学では自殺未遂、不眠症。希死念慮。これ、病院行けば診断書降ります? 

徐々にズレた歯車が、ここで完全に壊れた。
もう死ぬしかないと思ったし、今も思ってはいる。

こんな半生の振り返りをしても、何も解決する訳じゃないんだけど。どこか、外れ始める部分は必ずあるんだなぁと思う。私は普通だから、って思ってる人も、1度振り返ってみて。きっと、本当は普通じゃない。
特別な経験や過去がある人は、それによって思い切りズラされる。
けど、私のように、徐々にズレていく人もいるんだよ。そして、それはとても気付くにくいもの。だから、自分から探してあげよう。

普通じゃない自分を認めて生きよう。自分を責めなくていい、周りを頼っていい。だって、自分は普通じゃないんだから。普通の人と同じように生きる必要なんてない。

それが、今の私とあなたに伝えたいメッセージ。


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