真我、本当の自分に氣付くのは、単なるスタート地点でしかない理由
今まで生きずらさを抱えていたり、本当の自分がよく分からなかった人が
ふとした瞬間に[真我]に目覚めor氣付くと
その衝撃に感動して、それだけで満足してしまったり
最悪の場合、[目覚めた]事を鼻にかけてしまい、謙虚さを欠いた偉そうな人格に成り下がり
徳の低い状態のまま、スピ的なインフルエンサーになってしまったり
そんなこんなで、この[風の時代w(風邪の時代?w)]は
自称[目覚めた人]
数多の種類の[困ったさん]が爆誕しているように見受けられます。
それぐらい、[真我に氣付く]のは衝撃的な体験だし
それだけでも本人は歓びを感じられるんですが
でも、これは単なる[悟りの第一段階]にたどり着いただけ
キツイ言い方をすると、今までがむしろ寝たまま生きていただけ、です。
真我に氣付く事は、非常に素晴らしいことなんですが
それだけだと、ご本人だけはキラキラワクワクだけど、周りにはちょっと迷惑な人になりかねません。
悟る前から、周りへの氣遣いが、息を吐くようにできている人ならそこまで問題ないですが
今までが我慢に我慢を重ねて、辛酸を舐めるような生き方をしてきた人だと
タガが外れて、猛烈な傍若無人や、高慢な態度な失礼な人になってしまう危険性も孕んでいます。
なので、結論から言うと
【真我に氣付いたら、そこからヒントを得て達観する】
までがセットです。
達観するまでには、さらなる氣付きと、人格の向上、精神的な成長が不可欠です。
氣が遠くなるほどの修練をして仏陀クラスになろう、とは言いませんが
せめて半径3m以内の人と軋轢を起こさずに、お互いに氣分良く楽しく、仲良く生きられる程度には達観したいものです。
現代社会、特に日本は[〇〇せねばならぬ][〇〇すべき]などなど、ど根性論を幼少期から叩き込まれて
自分も含め、ほとんど全ての人の脳に、真我と違う[自動モードのプログラム]が書き込まれた状態で、人は大人になります。
0〜15歳までの家庭環境に異変(毒親育ち、住民の価値観がおかしい地方育ち、極端な貧困、愛着形成の欠如など)があると
その[自分をオートで縛る思い込みのプログラム]はより顕著に強く書き込まれますが
特にこれといった異変がない、ごく普通の家庭でも
何かしらの[勘違いや間違った思い込みのプログラム]は、多かれ少なかれ、誰にでも設定されており
これが俗に言う[生きずらさ]の正体です。
いろいろと自動化する事によって脳は省エネルギーで活動しているので
自動モードのプログラム自体は悪いものではありません。
ただ、その自動化されたプログラムが、真我の欲求や意志と違うから
結果、生きてるのが苦しくなるというメカニズムです。
で、その[真我とは違う自動モードのプログラム]は、真我の意志に氣付いてからでないと外せない
(基準になっている軸が分からないと、違いもわからないから当然です)
だから、真我をしっかりと自覚(悟りの1段階目)するのは大前提で
そこから、真我に寄り添って、真我の意志や要求を聴き、それとは違う、なおかつ間違っているなら
自動モードのプログラムに氣付いて、外す
さらに、真我に目覚めると盲点が外れるので、真我からのヒントも見えてくるようになる
そうして初めて、日々の生活から、成長のための氣付きを得られるようになってくる
それには、真我からのメッセージを上手く受け取れる、ヒントや連絡がきてたら、すぐに氣付けるような
心身の余裕と健康を作っておくのも重要です。
それ以前に、まだ真我に氣付けずに生きるのが微妙にツラいという人がいらっしゃいましたら
脳の仕組みと機能を使って、真我に氣付いてもらうトレーニングメニューをオンラインでお伝えしているので
ライン公式アカウントまでご連絡ください。
https://lin.ee/RmKOqsR
一番アカンのは、真我とは違う、建前上の氣遣いを続けている生き方
真我の欲求や意志を、押し殺してor氣付かずor無視して
他人に合わせる、他人軸の評価で決める生き方です。
これだと、楽しい老後が過ごせないどころか
死の床で後悔のない、心安らかな最期を迎えることもままなりません。
真我に寄り添った、自分軸のある生き方は
決してワガママとは違います。
[ただ右脳に目覚めただけの人]と[達観まで到達した人]
1番イージーな見分けるポイントは、謙虚さがあるかないか、です。
悟った事を踏まえて人格が高めた人は、軒並み謙虚であり
自然と思いやりが溢れ、誠実になっています。
驕り昂りや、高慢、不遜、失礼とは対極をなす人柄に仕上がっていきます。
実るほど、こうべを垂れる、稲穂かな
あの諺は真理です。
自分の意志や欲求を無視したり殺したりしないのはもちろん
謙虚で柔らかな言葉や態度、雰囲気で、周りの人も快適にできる
その辺の丁度いい塩梅、を見つけられるのが
悟って達観した[真の大人]ではないでしょうか。