外注すればするほど、心は貧しくなっていくのかもしれない
昔はねぇ、友達10人くらいの電話番号は覚えていたのにねぇ
なんていう話は、上の世代の方からちょくちょく伺う。
今ではその記憶力が、スマホなんていう便利な道具に外注されている。
よく考えれば、肌で1℃の温度差を感じ取ることも(温度計)、料理の味付けをすることも(レシピ)、匂いを嗅いで食べ物がまだ安全かを確かめることも(強いて言うなら消費・賞味期限?)...
感じることの外注が、どんどん進んでいる気がする。
その特異的な例がメタバース・仮想空間なのかな、と思ったりする。
体全体をその空間に委ね、現実ではない世界を、アバターを通して体験する。
触覚までもがその空間のものとして感じられるという
現実世界ではあり得ない可能性も広がる世界だという。
でも個人的には、その現実ではない世界にはどこか面白味を感じられないし、
その空間で広がる可能性って、
その空虚な空間で広がる可能性って、
本当の可能性なのだろうか?
単に遊ばれているだけで、錯覚なのだろうか。
その空間での感覚は、たとえ私たち人間の感覚器を実際に刺激しているとしても、空っぽの感覚のように思える。
感じることの外注。
その最たる例が、食べることだと思う。
食べるというのは、ただ食べ物を口に入れて消化する行為ではない。
大地の恵みに感謝すること、五感をフルに活用して料理すること、楽しむこと、食を囲んで団らんすること。
とりあえず必要な栄養だけ取れれば、お腹が満たせればとか、ダイエットや健康のために、といって食の社会性や感覚をほぼ削ぎ落した現代の食は、食とは言えないと思う。
そうしてできたのは、心の余裕・時間の余裕とでも呼べばいいのか。
でもその代償として、食べること、つまりは生きることを心身全体で味わっていないが故の虚しさに、遅かれ早かれ人は憑りつかれるのだと思う。
似た話、あったな。
時間どろぼう、MOMOのお話。
感覚どろぼうみたいなのもこの世界には存在しそう。
もう一度、MOMO読み直そうっと。
インスピレーション源:
仲間との会話
「モモ」 著:ミヒャエル・エンデ を思い出しながら