見出し画像

国を、分野を超えていきたい私の核となるもの

国も、分野も超える「さすらいの百姓」になりたい!と決めて少し経ってから、重要なことに気づいた。

自分の核がわかっていない。

ああ、そうだ。オランダ留学して初めて、日本のことを全然知らないと痛感した、あの気持ち。もっと学びたい、と思って帰ってきたあの気持ち。

その大本は、いくら髪を染めようが、違う言語を喋ろうが、変えられない事実。私は日本人として生まれたということ。それでもって、日本人とは?日本とは?というのがまだ全然わかっていない。


最近、日本とは?と考える機会が連続して私のもとにやってきた。

例えば和食
和食は「和」のものだから、つくる際には不協和音を出さないようにすること。それに対して中華料理は、炎の上で鍋と金属のおたまを振るイメージだ。どっちが良い・悪いではなく、単に違うということ。


他にも、和装
着物を着ると自然とすり足になり、他の所作もおしとやかになる。また、着物は畳でないと畳めない。逆に、畳なら驚くほど綺麗にたためる。たたむ際には自然と正座になる。オランダ留学時代、ベッドの上でたたもうとして苦労したのを思い出す。また、タンスにしまう際にも、両手で持ち上げお辞儀をするように体を動かす。自然と頭が下がるようになっているようだ。


有難いことに、先日日本刀に触れる機会を頂いた。 
武器であって武器ではないのが日本刀。精神性を宿すものであり、心のよりどころでもある。海外では、なかなか理解されない不思議なもの。


最後に、とても身近な日本語
英語やオランダ語、スペイン語を学んできた身としては、日本語は際立って相手に対する態度が現れやすい言語だと感じている。

例えば、話し相手の呼び方。階級社会の傾向が弱いオランダなどでは、先生も上司でさえもファーストネームで呼び捨てすることが多い。かしこまった場面では、meneer / mevrouw を付ける。対して日本では、さん・さま・ちゃん/くん・殿・呼び捨てなど、様々な呼び方がある。そして、例えばさん・さまで呼ぶと、なかなかその相手に対して怒鳴ることはないと思うが、呼び捨てになった途端に乱暴な言葉遣いの可能性がドンと広がる。

呼び捨てが普通の外国語が乱暴、という訳ではなくて、日本語においては、言霊の国 日本においては、ということ。



科学技術の向上につれて、精神性・民度が没落しているように感じるのは、私だけだろうか?便利なもの、便利なサービスが溢れる社会における、精神性の欠如。

色々な分野を超えて学び、繋げたいと思っている身だからこそ、自分自身の核、物事の本質をもっと深く学んでいきたい。でないと、ただ彷徨う人間になってしまう気がするから。


インスピレーション源
仲間との会話
師匠のお話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?