努力は必ず報われる訳ではないけれど
大人になれば、社会人になれば、ビジネスになれば「結果」を求められる。
結果が全てだと、言われるようになる。
この社会を司る資本主義の名の下に、僕らの行為には生産性という評価軸で価値がつけられる。
だから無駄なく効率よく成果を出せることこそが、最も大切であるという価値観が社会全体に広がっている。
だけど、同時に僕たちはあるものに込められた努力量を評価するという、価値基準も持っている。
その名は「感動」だ。
感動という価値基準にはのメモリを満たすのは、感情であり、喜びであり、共感であり、昔からある普遍的でシンプルな心な動きだ。
そしてある程度熱量が込められるものなら、基本的に感動につながると僕は考えている。
ポンコツだった子が努力して、成長した姿。売れないアイドルが、大舞台に立つ。長年苦労して、描き上げた作品。子供が無邪気に楽しむ姿。
生産性に結びつかないかもしれない努力が、実は感動という価値基準を満たす場合がある。
そして、感動という価値基準は非合理的で曖昧だ。
あくまで、個々人の主観の数だけ、価値の判断基準があるのである。
大まかに似通っていたり、それすらも資本主義的な価値観によって麻痺させられている場合もあるかもしれないが。
だけど、生産性を超えられるのは、この感動という価値基準なのではないかと僕は考えている。
ただひたすらに磨いた石。編み込まれた七色の毛糸帽子。走り回って、擦り切れた革靴。下手くそでも、大好きで歌い続けたあの曲。
生産性は一切なくて、意味はないかもしれない。だけど、それを見てなんだか感動してしまう。そんな風に誰かに思ってもらえるかもしれない。
あなたの努力が、自分に見合った結果を生み出さないかもしれない。
だけど、感動という価値で見た時には、全ての物事に価値があるのではないか。その意味で無駄な努力なんてないのではないか。
こうやってなんとか定義さえもして、僕は自分を磨き上げていきたい。
個々人が自分勝手に生み出したものを、讃えたい。
それは誰かのためじゃなくて、自分と仲間のために。
そして、頑張っている誰かを簡単に見捨てなんてしないように。