昔のシノギについて2

皆様、こんばんは。

昨日に続きまして、若かりし頃のシノギについて語っていこうかと思います。

早くビジネスについて書けよ!って思われる方も多いかと思いますが、なにぶん読んでくださっている方がまだまだ少ないので、もう少し読んでくださる方が増えてからにしようと思っています。

近代ビジネスに完全にマッチしたお話もすでに用意しておりますので、そこはご安心ください。タイトルもほぼ決まってますw

『目から鱗!原価のまま販売しても儲かる秘密』500円

で予定しています。気になりますよね?


・・・


さて話を戻します。

17歳の時に、何も考えずに青森県へ飛行機で行きました。

当時は格安航空券などもなく、高かったのですが、登録をすることで15000円で青森まで行けるという情報を入手した私は、知り合いもいない、縁もゆかりもない土地へと行くわけです。

空港についたとき、お金も数百円しか持っておらず途方に暮れました。

何をしたらいいかもわからず途方に暮れていると、空港のターミナルのようなところで、あるふくよかな女性が男性を送り届けているのが見えました。

すでに空港内に彼氏が入っていったにも関わらず、まだ手を振っています。

私はチャンスは今しかない!と思い、初めてのナンパをしました。

何も考えずに青森に来てしまったこと、お金がないこと、すべてを話しました。その女性は私の話を熱心に聞いてくださいました。

彼女は30分ほど、私の身の上話を聞いてくれた後、どこかに電話をしていました。

そして車に乗るように促されました。

夕方頃、とても田舎チックな場所に到着しました。

確か、平賀町(ひらかまち)という場所でした。

そこは彼女の住む実家で、ご家族にもいきさつを説明して泊めてもらえることになりました。

家族みんなが優しく、心が洗われるような気持ちになりました。

ごはんもすごくおいしくて、お昼は雪かきを手伝いました。

でも1週間が経った頃、さすがに申し訳なくなり、彼女に事情を説明し、家を出ました。

車で30分ほど走った場所でしょうか、弘前駅という少し栄えた駅におろしてもらいました。交通費まで持たせてくれました。

でもこのまま関西に帰ると、私は何もすることなく、青森県がどういう街かも知らないままです。なぜかすごくもったいない気がしました。

そこで私は駅に入るふりをしましたが、彼女が帰ったのを見てから弘前の街をぶらぶらしました。

大きなダイエーがあり、そこにはたくさんの人がいて、フードコートで聞き込みをしました。働ける場所はないか?と。

なんかフードコートが2Fにあって、若者はそこにたくさん集まっている感じでした。

関西弁が少し良い方向に働いたのか、意外と皆話を聞いてくれます。

1番最初は男の子に声をかけたのですが、少し嫌そうにされたので、それは関西弁のせいだ!と思い、女性にばかり声をかけました。周りからはナンパみたいに見えたかもしれません。

そこで出会った1つ上の少女が仕事を紹介してくれるとのことで、夜一緒についていきました。それが鍛冶町という飲み屋街でした。

そこであるホストクラブへ連れていかれて、紹介されました。

ん~なんかホストってなんか想像してたのと違うなーとか思いながら社長と話をしていました。そこにいる子は社長も含め、満面の笑みなのですが、作り笑いな気がしてw

まぁそんなことを言ってる余裕はないので、とりあえず少し働いてみると答えました。すると社長の顔から笑みが消えて、『急に飛んだら探しかけっから』と真顔で言われたのをはっきりと覚えています。

そんなこんなで当日から働くことになったのですが、日当3000円。

おかしくね?

従業員に笑顔がない理由がわかりました。

ただ頑張ってお客を呼べば日当が増えるのはすぐわかりました。

・・・

あれ?仕事の話がホストの話になってる・・・

まぁいろいろあって、青森に6か月もいたわけですw

経緯はまた今度お話しますが、その6か月で、僕は青森県初のデリバリーヘルスを経営者になっておりましたw

まったく意味が分からないと思いますが、また今度『青森編』なるものでも書きますのでご容赦ください。

・・・

青森県から関西へ戻ってきたときに、青森県から女の子を連れて帰ってきちゃいました。そう、空港で出会った子です。

それはさておき、ラブホテルに連泊しながら彼女と家探しをすることになりました。

神戸市西区の高速道路の脇にあるワンルームマンションで3万円でした。

そのマンションを即決し、住み始めたころ、13歳年上の『実兄』が出所してきました。

もちろん刑務所です。

中学、高校と不良のくせに成績トップだった兄は、高校を中退し、悪ガキになりついには暴力団に所属し、服役中だったのです。全身入れ墨に覆われている実兄でしたが、私もお金に困っていたこともあり兄を頼りました。

兄は事務所の近くのマンションに住み始め、会いに行くといつも組の人間と一緒にいたので、気疲れしたことを覚えています。

ヤクザたちとの付き合いが始まると気付いたことがありました。

あいつら気が極端に短い。

一瞬でもクラクションを鳴らされるとすぐに降りていく。

しかもかなりイケイケの組で、急に殴りつけたりと悲惨なものでした。

最終的にそんな組内で、私はシノギを教える立場になっていくのですが、その話はまた今度させていただきます。

出所したての兄は、シノギがなかったのですぐにシノギを始める必要がありました。

そこで、話が出たのがブランドのコピー販売でした。

すでに組内でやっている人間がいたので、その人間に卸をしている韓国人を紹介してもらいました。

ただ最初に紹介はしてくれたものの組はそれ以上のことはなにもしてくれませんでした。その時は驚きましたが、そういうものだということはおいおいわかりました。

まず私たちは携帯オークションに目をつけて、研究に研究を重ねました。

どういう人が売れているのかを徹底的に調べました。

ほかにもやくざでコピーを扱っている者もいましたが、写真は雑で説明文も雑。まともに売れるわけはない、と思いましたが当時はコピー品バブルで、そんな奴でも月30万くらいは利益があがっていました。

そこで私たちは、欲しくなるようなタイトル、サイズや詳細が分かりやすい説明文、バックカラーをさわやかにして目を引く商品画像に力を注ぎました。

すると数か月もすると、先輩やくざたちよりも稼ぐようになっていました。

兄と私2人でやっていたのが、そのころには4人になってグループになっていました。

売上、仕入、送料などを細かく計算し、商品の品質にこだわり工場で生産させるようになっていました。

最終的にはグループは数えきれない人数になり、彼らから売上の25%を受け取るようになっていました。グループの売上は億を超えました。

それがピークで、そのあとは悲惨でした。

まずはオークション側がコピー商品に対策を始めました。

そのあと、1人1人、逮捕者が出て、最後は兄と私だけになっていました。

そのころ、兄の兄貴分は跡目争いに負け、組を抜けました。

兄は商才があったため、引き留められましたが、『兄貴が抜けて、自分だけ組に残るわけにはいかない』との理由で、兄も組を抜けました。

自然と私も組との関係がなくなり、改めてシノギを探すことになったのです。

当時の私は入ってきたお金はすべて使っていたので、手元にお金は全くない状態でした。毎日遊び歩く私に幻滅した青森女子も私から離れていき、私はひとりになりました。

・・・・

続きはまた今度書きます。


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