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天上の回廊 第十一話

二人は屋上庭園に出た。月曜の午後もやや時間が経過して、庭園には多くの人がひしめいていた。風が少し強くなって等間隔に設置されたテーブルに据え付けてあるパラソルがぱたぱたと、はためいていた。空は今頃になって晴れ間が覗き、陽射しの当たる場所は、やや暖かくなり、そこには冷たい風から逃れるように人々が集まっていた。広場の中央に水を張ったテーブルのようなものがあって、二人はその水面を覗き込んだ。そこに映った翔太とはるかの顔はやや心細げに見えた。
翔太は言った。
「はるか」
「何?」
「あの茂夫っていうはるかの連れ…」
「うん」
「あいつは慰謝料がどうのこうのと言ってたが、よく考えれば、はるかとあいつは結婚してる訳じゃないだろ?」
「あ…」
はるかは目を大きく見開いた。翔太は続けた。
「だから、内縁関係な訳だから慰謝料なんて取れる訳がない。ましてや六百万だなんて」
「そうだね。どうして気付かなかったんだろ…。確かにそうだわ」
彼は優しい表情を浮かべ諭すように
言った。
「だから大丈夫。奴はなんにも出来ないよ」
「うん、心配することないね」
彼女は頬に少し血色を取り戻した。翔太はその様子を見て、少なからず安堵した。
「飲み物でも飲もうか。何がいい?買って来るよ」
翔太は西の空をちらりと見上げて穏やかに声を掛けた。はるかは、暫し考えて、
「野菜ジュースがいいな。なかったらオレンジジュースがいい。ありがとうね」と答えた。

二人は庭園の奥の方に整備された人工の池を見ながらジュースを飲んだ。モネの「睡蓮」をモチーフにしたという池には沢山の蓮が水面に浮いていてアメンボなどの水生の虫達が行ったり来たりしていた。池に小さな橋がかかっていて、翔太ははるかの手を取って渡った。二人は仲睦まじく、傍から見れば夫婦のようにも見えるのかも知れない。日は西陽になったが、植えられた木々の間から射し込む光はかえって強くなった気がする。はるかは目を細め翔太の方を向いて少し微笑んだ。微笑を返した彼は、不思議と温かな気持ちが胸の中に広がっていくのを感じた。こんな優しく穏やかな感情が自分にあったんだと思って翔太はそのことに我ながら驚きを隠せなかった。こんな素晴らしい女性を自分は絶対に守ってやらねばと思い、彼は身の引き締まる思いだった。

モネの睡蓮のエリアを出た二人はテラス席だけの小さなレストランに夕食の一席を決めた。陽は傾き、茜色に染まる西の空を二人は見ていた。はるかは呟くように言った。
「あのころ見た夕陽はこんな感じだったかしら…。もっと紅かった気がするけど」
翔太もうっとりと見入るように空の朱を眼に映していた。
「そうだな、もっと紅かった」
そう言って彼ははるかの肩を抱き、自分の方にそっと引き寄せた。そして彼女の黒い大きな瞳を覗き込み、そっと唇を合わせた。上と下の唇を交互に咥えて、じっくりとはるかのぷっくりとしたそれを、翔太は触覚で味わった。はるかもそれを受け入れ、二人はテラス席で激しく口づけあった。
ゆっくりとキスを終えた二人は、また夕焼け空を見詰めた。今度は翔太が口を開いた。
「はるかちゃんとあの城跡で見た夕陽を思い出すな」 
「城跡…ああ、あの山城ね。二人で道なき道を登ったわね。あんな体験は生まれて初めてだったわ。楽しかった…」
「うん、そうだな」
「翔太にはいろんなことを教えてもらった。本当に幸せだったわ」
そう言うと、またはるかは涙ぐんだ。 
「おい、はるか…今だって幸せだよ」
はるかは目を瞬いて、涙を拭きながら、
「そうね…とても幸せだわ。考えられないくらい。これからもっと幸せになるんだから」
「そうだ、その通りだよ。明るくいこうぜ」 
そう言って翔太はニッと笑ってみせた。はるかもつられて笑った。
「何かしら、あれ」 
はるかは向こうのビルからさっきから盛んにキラキラとした光がこちらに射すのに気付いていた。翔太もよく目を凝らして確かめようとするが、眩しくてよく見えない。このデパートの反対側のビルでこちらより少し高い。その屋上あたりから、光はチカチカ、チカチカと射し込んでくる。
そして光が僅かに弱まったとき、翔太は鞄のポケットからオペラグラスを取り出し、そちらを覗き込んだ。
向こうのビルの屋上に誰か男が立っている。ほっそりとした髭面の男で、口元に微かな笑みを湛えているのまではっきりと見えた。翔太の脳裏を嫌な考えがよぎった。
「はるか」
「何?」
はるかも不安げな表情に変わった。  
「ちょっと見てみて」
彼女は顔を強張らせながら、翔太が空中に手で固定したオペラグラスを覗いた。  
次の瞬間、はるかは小さい叫び声を上げて一歩飛び退いた。
「茂夫…!」
はるかは驚嘆の表情を浮かべている。翔太は嫌な予感が当たったことに少なからず落胆と恐怖感を覚え、そんな自分を恥じた。また電話が鳴る。翔太は通話ボタンを押した。
「もしもし」
彼はわざと低い声で言った。暫くの沈黙の後、また例の声がした。
「もしもうし」
翔太の身体を電流が走る。茂夫は続けた。
「仲がええのう。羨ましいわ」
「今度はなんですか。慰謝料なんて払う必要はないですよ。あなたははるかの正式な夫ではない」
「ほう…はるかと呼び捨てにしよったな…人の女を…まあええわ。慰謝料なんか最初から当てにしとらんからな」
「何?」
「慰謝料なんか最初から当てにしとらん」
「じ…じゃあなにが望みなんだ」
茂夫はまだ暫く押し黙った。そして、また声がした。  
「教えてやろう」
翔太はその声に背筋も凍る思いがした。

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