天上の回廊 第六話
帰りの電車の中で、翔太はひとり黙々と考え込んでいた。日の暮れた車窓をビル群の光が彩っていた。終電間近の車内はおびただしい数の倦怠が支配していて、どの人も、みな一様に疲れ切った顔をしていた。翔太はそういった光景を見渡して、なんとなく、やりきれない気分になった。ひとつ溜息をつく。
乗客の会話が色々聞こえてきて、彼は目を瞑った。さっき、再会したばかりのはるかの顔が瞼の裏に浮かんだ。幼いころから、はるかは瞳のぱっちりとした美少女だったが、成長した彼女は目鼻立ちが、より一層際立って、さらに美しく、そして少し妖艶な雰囲気を纏っていた。彼は、そんなはるかを思い描いていると、腹の奥の方から、なにかが湧き上がって来るようで、身体が熱くなるのを感じていた。
彼はそんな想いが心の中で渦巻くのに若干の罪悪感を覚えたが、兎に角、現在、はるかの置かれた絶望的な状況に、どんなであれ手を差し伸べなくてはならないと考えることで、それを打ち消した。
暫く沈思黙考していた彼だったが、不思議なことに一向に結論は出なかった。翔太はそれを周りの騒音のせいにした。難しい問題だ、と彼は小さな声で独りごちた。電車は彼の住む、練馬区のとある駅に到着した。ドアが開くと、人の波が一斉に流れ出した。
駅から翔太の住む家までは、歩いて12分程である。郊外、と言えば聞こえはいいが、詰まる所、かなりの田舎だった。家までの細く曲がりくねった道の両側は野菜を作る畑ばかりだった。道すがら、彼は漆黒の空を見上げ、やや大きな声で、幾つかラブソングを歌った。
はるかには素行の悪い内縁の夫がいて、夫は浮気をしたばかりか、その相手に金を注ぎ込み、借金もしている。はるかも、その男とはもう縁を切りたいと思っているが、何か弱みを握られていて、それは望み薄だ。彼女は、本当に困っている。生きることに希望すら無くしかけている。なんとかしなければ…
翔太は今の厳しい状況を整理していた。畑の景色から、小さな商店街に入る。シャッターの降りた店が多く、ここも一頃の活気を失っていた。彼は自販機で紅茶を買って、ここだけ一際明るい最近出来たチェーンのドラッグストアの前に設置してある赤いベンチに座った。プルトップをカチッと開けて、一口すする。
ポケットから、はるかに貰った連絡先の書かれた紙を取り出した。LINEのIDが書いてあった。彼は一分ほど、それを見つめていたが、よくよく考えるとこんな紙に書かずにその場でお互いに登録すれば良かったのに、と思った。すぐに登録してみる。
トークの画面を開き、一言送ろうと思ったが、はるかが、これからあの人が帰って来る、と言っていたのを思い出して、少しためらわれた。彼は暫く考え込んでいた。
しかし、こうしていても仕方が無いような気もしたし、そんな酷い男に、はるかを自由にさせていると思うと腹が立って、彼は、「こんにちは」と送ってみた。
暫く待っていたが、一向に既読は付かなかった。翔太は貧乏ゆすりをしながら、紅茶を飲み干した。なんとも言えない焦燥感みたいなものに彼は包まれていた。
そして、15分ほど経った。もう帰ろう、と立ち上がった瞬間、チャイムが鳴った。翔太は急いで画面を見ると、「こんにちは」と返信が来ている。彼は慌てて、「さっきはありがとう」と送った。「こちらこそ」と返って来た。先程までの重苦しい雰囲気を振り払うかのように、二人はしばらく当たり障りないやり取りを続けた。
そのうちに、はるかから「電話しない?」とチャットが来た。「大丈夫なの?」と返す。「大丈夫」とすぐに返って来た。そして、「かけるよ」と続き、3秒程して、着信が鳴った。
「もしもし」
翔太は展開の速さに少し戸惑いながら通話口に話しかけた。
「もしもし」
「どうしたの?」
少し、間が空いて、はるかは若干上擦った声で、
「日曜日に、池袋の駅前のベッカーズっていう店に来て。午後2時」
「え、なになに?」
翔太は突然の申し出に混乱した。
「トークで送ってくれた方が分かりやすいのに。急いでるの?」
「なるべく履歴は残したくないの。でも、そうね、念のため、あとで送るわ」
はるかは、早口で言った。
「わかった、じゃあ日曜日ね」
「うん」
それで電話は切れた。
続いて、先程の日時のチャットが送られて来た。翔太は、一抹の不安感を高揚する心で押し込めようとしていた。時計を見ると、もう午前2時を回ったところである。