本を読むために外へ出る日がある。 比較的晴れていて、暑すぎず、寒すぎない、風の穏やかな日に。 行き慣れた公園のベンチへ座ろうとした時、小さな蟻の行列が目に入った。なんのための行列なのか、わからないけれど忙しい様子だった。列はいつからあるのだろう。邪魔をしないように、少し離れた場所に腰を下ろす。 周りを見渡すと、以前来た時よりも枯れ葉が落ちていることに気付く。少しの風が吹くたびに、葉の転がる音がする。新たに枝から落ちる葉が、視界によぎる。 十月になったけれど、袖口から出ている
言葉にすることはとても疲れる。見たくない。知りたくない。面倒くさい。 気持ちを言葉にしたところで何になるのか。 いない相手を探すようで、自分の醜さが目につく。 諦めることが当たり前になると、みるみる自分の輪郭が曖昧になっていった。 このまま、外側との境目がなくなったとき、私はなにになれるのか
ここ数年、花などの植物、鳥や昆虫など身の回りにいる生きものに支えられながら過ごしている。 どの生きものとも、会話ができるわけではないけれど、その佇まいが在ることが愛おしい。思いを共有することはなくても、同じ時間と空間にいることを許し合えている、というか。 植物には、できるだけ長く元気な姿をそばで眺めていたくて、できる限りの手入れをする。どうか少しでも過ごしやすいように、声が聞こえない分、よく観察する。 蕾が膨らみ、花が開くのを見ると、とても嬉しくなる。花が萎み、花びらが透かさ
話したいこと、話したほうが良さそうなこと、話さなければいけないこと、話せないこと。 いくつかに分類できても、見返してみると、全部"話さなくてもいいこと"にまとめられそうだ。 頭の中は、余計なものや考えばかり。
「あなたは ひとりでいた方がいいよ。」 そう言われた時、またひとりにならなければいけないのかと、胸が潰されるような気持ちと、ああやっぱりそうだよね、と腑に落ちた感覚も少なからずあった。 人と関わっているときに苦しんでいた私を知っているから、あの人はそう言ったんだと思う。きっと深い意味はない。わかってはいても、その言葉は私の中にずっと残っていて。今も、忘れられずにいる。 ひとりの時間は静かだ 誰のまなざしもない 聞こえるのは、街の音、風の音、雨音、自分と関わりのない人々の話し
"ここにいた"という自分だけの記憶ばかりがどんどん増えていく。ひとりで外へ出て、誰とも会わず帰路につく。そんな記憶は、他の誰にも知る余地のないものだ。厳密に言えば、私を知らない誰かが、近くの木に止まっていた鳥が、横切る風が、私という実体を目撃したのかもしれない。けれど、きっと見ず知らずの私を憶える人やものはいないだろう。だって自分の記憶さえも曖昧なものだから。私はそこにいたけれど、"いなかったかもしれない"と思えば、そこにいた現実はすぐに揺らいでしまう。掴む事のできない、煙み
いつもと同じ散歩道、誰かと歩くと違う風景が見れる。私の横で教えてくれた いくつかの花の名前は、帰る頃には忘れてしまっているけれど。隣で花を愛でている表情や嬉しそうに話す姿は、しっかり覚えている。
内側に滞留していた言葉が声になろうとする時、躊躇い、考えてしまう。たったひと言が相手との距離や関係性を露呈することにも、関係を裂くことにもなり得るから。しゃぼん玉のように空間を漂い、すぐに消えてしまうかと思えば、時に相手の心に沁み入る、声。 ふと浮かぶ、自分だけが知る思いと言葉、どこにも届けられないまま、誰にも見られないように川に投げる。一瞬だけ跳ねる水のしぶきが やけにスローに見えて。流されやがて見えなくなっていくのを、ひとりきりで見届ける。
しょっちゅうではないけれど、爪に色を塗る。誰かに見られるわけでもない、その好きな色は、道端に咲くの花のような存在感があって、私だけがその特別さを知っている。
八月上旬のこと 夏の真ん中の夜、午前二時。向かう先は海。 その夜、唐突に海に行かなければならないと思った私は、お風呂から上がった後、いつもより丁寧に化粧をして、毎年夏に着るワンピースを身につけたまま仮眠をとった。 ほとんど眠れないまま、アラームの音で床に足をつく。 真夜中だけれどマスクに帽子。ここからどれくらいかかるのか、調べたけれど実際にはわからない。電車はないので自転車に乗る。ずっと乗っている赤い自転車はペダルを漕ぐたびキコキコ音を立てる。 夜なのに涼しくない。