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無宗教の私が出した、宗教への結論

私が勤めている会社

私が勤めている会社は薄給だ。
そして社内の9割は給料が同じである。
一部の役職者以外はみな同じ給料で、ついでにその一部の役職者でさえも薄給なのである。

何度も繰り返すが、私たちが勤めている会社は薄給なので、この会社の給料だけでは生活はギリギリである。
なので、大半の人はダブルワークをしている。
ピザ屋やマック、宅配寿司やコンビニ、スーパーのアルバイトと掛け持ちしている人もいれば、役者の卵や、芸人の卵、バンドマンなど夢を追う人たちも沢山いて、また私のように個人事業主として別に仕事を持っている人もチラホラいる。

つまり、専業の人はほとんどいない会社なのである。

キリスト教信者の同僚

その会社の同僚に熱心なキリスト教信者がいる。
『熱心な』とは言ってみたものの、他に特定の宗教を信仰している人を知らないので、本当に熱心かそうじゃないかはわからない。

彼は、私が見る限り職場の誰からも好かれていて、彼の事を悪く言う人は聞いたことがない。つまり有り体に言うと『いい人』なのである。

たしか彼は50歳を少し過ぎて、10ほど離れた奥さんと、3人の小さな子供がいる。1番上は小学生、下は確か3歳だったと思う。夫婦共働きで、更に彼は土曜日もアルバイトをしているそうだ。

これは想像でしかないが、世帯収入でざっと40万前後といったところだろうか。
「公営団地に引っ越して家賃が低く抑えられる分、楽になった」
と言うが、外食もほとんどせず、本人は昼食も抜いていたりする。

そんな彼は、いつも笑顔だ。
「貧乏だけど、神様が見守ってくれているから」
と言って笑う。

今年6月くらいだったか、今も続いているがコロナ禍の真っ只中。彼は他の誰よりもマスクや手洗いなどにとても気を使っていて、私が「すごいですねー」と声を掛けると「小さい子供たちがいるからね。子供に感染させたくないし」と言っていたのだが、運命というのは面白いもので、その1か月半後にコロナに感染した。

と言っても感染源は彼ではない。一番下の子供を預けている保育園で感染者が出て、その子供がPCR検査を受けたら陽性反応だった。その家族である彼や奥さん、兄弟は濃厚接触者となった...という話。
「神様、守ってくれてなくね...?」と思ったのは内緒だ。

神様が見ていてくれるから

私たちの仕事は個人での外回りが基本なので他人と関わることが少ないのだが、彼とは同じ業務ということもあって一緒に仕事をする機会が時折ある。
雑談の延長で、勧誘ではないけれどキリスト教についての話がちょくちょく出てくる。
彼のする話を、最初は斜に構えたように面白半分で聞いていたのだが、最近は少し興味が出てきて、こちらも多少興味があるところを尋ねたり突っ込んでみたりするので、話そのものは面白い。

先にも述べたが、彼は『いい人』である。と言っても聖人君子では無く、嫌なことは嫌だと言うし、不平不満も愚痴も言う。でも、悪いことはしない。

「神様が見てるから」

と、ことあるごとに彼は言う。

色んな話を聞いている中で私が分かったことは、彼の行動は教祖であるイエス様に沿っているらしいということだ。

信者の行動理念

面白いと思って記憶に残っている話がある。
「キリスト教って婚前交渉しちゃダメだし、浮気も出来ないんでしょ?俺にはとても無理だー」
と私が言うと、
「俺もキリスト教と出会う前は女遊びしたりもしていたけど、自分が傷付いたり相手を傷付けたりすることもその分増えるじゃん?魂に導かれた相手と添い遂げることで幸せになれるんだよ」...うんたらかんたらと彼。
正直その部分はどうでもよくて、面白いと感じたのはそのあと。

「変な話だけどさ。今日みたいな風が強い日に、前を歩いている女の子のスカートがフワっとめくれるとかって場面では、見ないように顔を背ける。神が誘惑という試練を与えてきた!って思う。これに惑わされちゃいけないって。」

私が面白いと思ったのは、彼の行動理念が自分自身の想いや欲求では無く、あくまで神様が主なんだな、ということ。

これは私が上の例え以外にも沢山の話を聞いたからこそ気付いたことなのだが、彼は何かと
「神様がイヤがるから」とか、「それは神様が嫌いだから」という発言をするのである。
中には矛盾していることもあるのだけれど、そのあたりは置いておくとして、つまり彼の行動は、

『自分が自然に浮かぶ考えや感情、欲求』から、その後起こそうとするアクションについて『神様がどう思うか』を精査して、実際にアクションを起こす

というように整理されているのだな、と感じた。

たとえば私は無宗教で、基本的には法律に沿って行動しているけれど、行動の指針はあくまで自分にあるので、時に感情や欲求にまかせてグレーゾーン(時折クロ)の行動もする。

たとえば浮気もそうだし、パンチラはラッキーだと思うし、可愛い女の子が居れば目で追うし、こっそりとビルの影でタバコも吸うし、飲み終えたペットボトルをその辺に捨てちゃうこともある。
...いや、こんなものではない。もっと悪いこともしているけど、さすがに大っぴらには書けないので勘弁して欲しい。

だが、彼はおそらく、そんなことをしないのである。
なぜなら神様がイヤがるから。

私からすると、他人(神様)がイヤだと思おうが何だろうが、勝手にイヤだと思わせておけばいい。なーんて思ってしまうのだが、そうではないのだ。

彼らは、神様がイヤがるからの先にあるものを信じているからである。それは何か。

そう、天国である。

天国に行けるかどうかは、神様が生前の行いを判断して決める。つまりジャッジする神様の機嫌を損ねてはいけない。だから良い人であろうとするのだ。

...というのが、私がキリスト教、ひいては宗教に対する解釈である。
人生のゴールにあたる部分に大きな『ご褒美』を用意されていて、それを獲得するために頑張れ!というわけだ。

つまりは、壮大な飴と鞭である。

私と宗教

私は宗教というもの自体に、良くも悪くも思い入れはない。
これまでに述べたように、どの宗教もおそらくは人生のゴール...つまり死後に何かしらの『ご褒美』があり、それに対して生きているうちには沢山『試練』があって、乗り越えた先にはその宗教ごとの『ジャッジメント』がいて、ご褒美を貰えるか否かの判断をされる。
ということなんだろうと思っている。

行動指針が自分ではなく超常のもので、それが法律や倫理と重ねて考えたときに『良いこと』とされる行動に結びつくのなら、それはとても良いことだと思う。

私も良い人になりたいという願望はあるので、出来れば自身の行動指針を誰か(何か)に預けてみたいと思うのだが、それには私が信じられる『ご褒美』が必要なのである。

というわけで、誰か私に『ご褒美』をください。もれなくあなたの信者になります。

思いつくまま、気分の赴くままに書いています。