日記スランプなう(7/18)
文章というのは、読む人にも客観性と読解への冷静な姿勢、視点が求められるものだと思う。
こと「日記」に至っては、「人の日記を読むこととはどういうことか?」という根本的な前提の話にもなってくる。
人の日記は読む者がジャッジするものではないし、是非を問われるものでもない。最も自由が尊重されるべき表現法のひとつだと強く思う。
嫌なら読まなければ良いし、嫌だとして、その思いをいちいち書き手に伝えるのは筋違いだと思う。これが間違った視点なのであれば、納得のできる筋道を以てして説明して欲しい。
さて、書き手の技量だって当然求められて然るべきなのだが、フランスでよく言うところの「物書きが作家とは限らない」は、本当に良く言ったものだと思う。その通り!
私は明確に作家ではないけれども、私の文章の価値は「芸術性」にではなく「生活性」にある。
多様性とは言うは易し、で、馴染みの場所で馴染みの生活をしていると触れられない世界が世の中には溢れていて、それは例えばちっぽけな私という人間が見てきた本の少しの経験からも滲む燦然たる事実だ。
一人の人間にひとつの人生。だからこそ「生活としての物書き」にも価値が出る。JRの映画『テハチャピ』で囚人の一人である男性が言っていた言葉を思い出す。高尚な芸術や表現だけが救いではない。それこそが真の意味での多様性なのだと思うのだ。芸術は「生きる」ための道具であり方法であるから。(そして「そのもの」に昇華していくわけだが)
とはいえ、ひとつの人生だからこそ優先順位、選択があって、そこに自分の気持ちが折れるような言葉が投げかけられると、その度に優先順位はどんどんと後ろの方に追いやられてしまう。少しずつ遠くの方に離れてしまって、少しでも陰る日にはすぐに見えなくなってしまうのだ。これって、誰で経験のある現象だと思う。
そんな悩みを、久しぶりにインスタグラムのストーリーに投下した。
これまで幾度となく、私の日記を日々の習慣に取り入れてくれていたり、寝る前や出勤中のリフレッシュに活用したり、気分転換ややる気スイッチ的に側に置いていてくれた人がいることを、たまに頂くDMで知っていた。
もし「別に日記やめたらいいと思うよー!」と言ってもらえたら、それに甘えて辞めたいと考えていた下心も正直に吐露しておく。
実際には、幾つもDMをもらって、それらは私のことを気遣いながらもやはり続けて欲しいという言葉たちだった。
私は人の期待を裏切ることが苦手だ。こう見えてエンターテイナー的な気質も持っており、基本的には人に喜んで欲しいという気持ちが強い。音楽のステージも、自分が演奏したい!私のイケてるプレイを見てくれ!という気持ちより、音楽と人を繋ぐ洗濯物を取り込む係みたいな役割を自認している。洗濯物(笑)こりゃ「作家ではない」なんて書かずとも誤解の生まれない惨事だわね!
旅の途中、絶景を前に「ごめん、ちょっと日記書かないとダメだから」とクルッと体を翻して携帯を取り出す私。
極めて個人的な素晴らしい時間を中断し、更には自分には全く理解のできない言語で日記を書く人を隣で見ている彼の、少しばかりの寂しさを嗅ぎ取る。そんなことは決して言わない人だが、魂を交換している人の考えていることは、とてもシンプルに伝わってくる。
「なぜ毎日日記を書くのか」と彼に聞かれたことがあって、いくつかもらったDMの中で「励まされてる」「この日記が日々の救いになっている」「自分も頑張ろうと思える」という言葉に私が逆に励まされていること、自分のやっていることに意味を感じることなどを話した。
とても感受性豊かな人なので、少しの驚きと共に「それは、続けた方が良さそうだね」と言って納得した様子だった。
めちゃくちゃな低クオリティだが、現在のインスタグラムのストーリーには自動翻訳機能がついている。おそらくそれで私の長文の弱音を書いた本日の投稿を読んだのか、今朝「僕の日報」(日記の投下と共に私がいつも書いている”My Dialy Diary”という言葉)を冠したメッセージを送ってきた。ヒロコも日報やってるでしょ?だから僕も一緒に日報やることにした、という言葉と共に。
そういう、押し付けがましさのないフォローを入れる人が近くにいて、かつ、色んなフォロワーさんからもらったDMも相まって、もう少し頑張ってみようかなと思いながら、重い重い腰を上げてこれを書いている。
そもそもモチベーション低下だって、読んでくれている人たちに全然関係のないことで、知らんがな!と言われても反論ができない。
できたら当初の予定通り一年続けば良いけれど、少し様子を見ながらてくてく行きましょうか。