ただそれだけのこと(7/17)
リヨンからパリに戻る。楽しい旅を惜しむ気持ちもあるが、頑固なわりに順応性が高いのか、記憶力がやはり相当に悪いのか、終わって郷に戻ればあっという間にそれはそれで馴染むのが私という生き物である。
帰宅してほどなくパリオリンピックがスタートすることを考えると、オリンピックが始まってからバカンスに出た方が良かったとしか言いようがないほど残念だが、夏の予定を早めに立てているフランス人と違って、日本の中でも休暇制度に全く興味のない部類の私なので、こちらが向こうに合わせればいいだけのところは合わせようということで、中途半端な時期にパリを離れてしまったのである。元々私は、人のスケジュールに合わせることに何の抵抗もこだわりもない。嫌な事は絶対にしたくないが、嫌じゃないなら何でも良いというスタンスだ。最初はそんな私の性格を消極性の一種と思っていた彼だが、ただ何のこだわりもないということは理解した模様。めでたし、めでたし。
と言いつつ、たかだか三日の旅などバカンスでも何でもない短さなのだが、私にとってはちょうど良い感じに自然を堪能できるボリューム感であった。
友人でも恋人でもそうだけれど、ちょっと物足りないくらいが丁度良い。その方が、自分の巣へと戻った時に「やっぱり私って一人の方がいいわ〜!ひゃっほー!」となってしまうことなく生きていける気がする。(筋金入りの一人好き)
キャンプ中、日本から仕事の一報が入った。吉報の類のものではなかったのだが、その内容に言葉や表現の難しさをしみじみと感じた。
現在いくつかプロジェクトをやらせてもらっているのだけれど、その中のとあるプロジェクトについて、私が日記の中で(結局問題点が有耶無耶で何が悪かったのか把握しきれていないのだけれど)特定の人?に対してあまりポジティブではないことを記述していて、それで傷ついた人がいたという話であった。
私はこんな性格なので、言い方には(これでも)配慮しつつ、かなり忖度なく意見を言う方である。それで嫌われるなら遅かれ早かれ合わないのだし、皆んなから好かれるなんて土台無理だから。自分自身のことを長く知っている自分なので、できることとできないことは凡そ把握している。嫌われても仕方ないよなと思って受け入れている自分の個性もある。
この日記を始めて以来、特定の人を遠回しに糾弾したりなじったり、もしくは本人が見るかもしれないことを幾ばくか期待して(?)特定の人への個人的なメッセージを込めて書いた文章はない。自分の人生に起こったことを、読み手が特定できないように書くことはあるし、あとから「ああ!このプロジェクトのことだったのだな!」と読み返した時に嫌な気分になるような内容は控えているはずだった。
冷静に見てる人は知っているかと思うが、私は意外と(!)ネガティブなことよりポジティブなことを多く発言しているのだが、この世がデッカい宝島だった昭和時代は終わり、日本総ネガティブワード雁字搦め令和時代なので、10のポジティブより1のネガティブしか眼中に入らないこともあるだろう。
人間は自意識がとても強い生き物だ。私だって自意識をコントロールするのに未だに苦労する未熟者だから、誰のことも偉そうに言えた身ではない。
そうやって書いているこの文章だって、誰かを腐すためでも、アンサーブログでも何でもない。というか少なくとも40になった私は、そんなわざわざ人に嫌味ったらしいことを投下したいほどの(その行為への)興味も意志もないのである。もう、自分が生きていられる時間に、自分が大切に思うひと、自分のチャンス、衰えていくであろう体力とどう向き合うかで精一杯なのだ。
とは言え、私は私で反省点もある。
「この日記を読んでくれるような人ならば、私の思想に興味があって、好きでいてくれて、文脈を冷静に客観的に読み解けて、私の本当に書きたいこと(生き方の本質について)を理解してくれるだろう」みたいに一方的な”当たり前”と”期待”を繰り広げているわけで、それって結構醜悪だ。
人生に起こるあらゆることが自分を知る勉強になる。何度も同じことを言っている気がするが、自分を知るだけ他者への感動が増す。世界中の人が「自分のことを知ってもらいたい」よりも「自分のことを知りたい」と思えれば幸せで地球が満たされていくのではないかとすら思うのだ。
電話を切ったあと、何を話してたの?と、自称「生まれてこのかた日本人に会ったことがない」と言い張る彼が、キャンピングカーの片付けの手を止めて聞いてきた。なるべく分かりやすく事の顛末を話した。
私も愚痴が言いたかったわけではなかったので、少し面白おかしく話したこともあり「なんていうサーガ(saga)!そんな繊細な配慮をしながら創作をするってなんか大変だね」と目を丸くして笑っていた。(彼もアーティストなので言わずもがな理解できる下敷きは持っている)
仕事って、いつでも自分が思う様にはいかない。勿論、自分にも思い入れがあるのでそれを残念に思うこともあるけれど、でもそれって別に不幸なことじゃない。仕方のないことだ。そして、仕方のないことは不幸なことじゃない。
仕方がない、って言葉はそんな絶望的なものではないし、誰かを嫌ったり、作品を愛せないということではない。せっかく持っている繊細さは、こういうところで発揮できると尚良い気がする。あらゆる愛は、そんな簡単に分別したり是非を問うたりできないものだ。
そう、ただ「そういうこと」なだけだ。
何年も前から気の合う友達とよく話していることがある。現実=現象と感情がチグハグな時、不安定で不明瞭な後者よりも前者を優先させたいよねって。そんなんわけで私は苦しくなったら前者を選ぶ人間なのだけれど、おそらく日本の風習的には後者を選んだ方が”賢く嫌われない”。
何のために生きているのかっていう話になってくる。賢く嫌われない人になりたいかどうかっていう好みの問題。
私も散々曖昧な船をチグハグに漕いできたけれど、自分の愛情表現や個性や、それを育ててくれている友人たちや仲間、上手く行こうが行かなかろうが関わらせてもらっている全ての仕事に自分の人生の必然的な出会いを感じるようになり、だから他者からの評価は評判にはタッチしないようになった。
嫌われても仕方がないし、共感してもらえたり好かれたら嬉しい。「ただそれだけのこと」