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編曲の仕事(7/4)

長らく自分で曲を書いて演奏することが当たり前の人生であった。それこそ、保育園児だった頃からの歴史なので、他者に説明できる理由なんて特に持ち合わせていない。

そんなのって素敵じゃない?と思われがちだが、逆に「曲が作りたくて堪らない!音楽がしたくて堪らない!」みたいな自発的な強い意志もそんななかったりする。言うならば、家でご飯作って食べるみたいなものだろうか。
長く一人暮らしをしていたら、今さら自炊することに心躍らせることは殆どないのと同じで。

日本の音楽業界に身を置くようになってから、しばらくは編曲の仕事っていうのはなかったように思う。いや、正確には、バンドのサポートみたいなことをちょこちょこやらせてもらう中で、バンドのアレンジに関わってきた。でもバンドって、何となくメンバーとまぜこぜの扱いになって、”編曲という営みも演奏に含む”みたいな暗黙の了解がある。良いか悪いかは別にして。というか、良いとは思わないけれども。なぜならメンバーではないので(ちゃんと明記して下さってる現場は除く)。

バンドのアレンジって、実際自分が楽曲の支柱の大部分を担っていたとしても「編曲家」という名刺を携えて関わるものではないのが通例で、だからあまり「自分が今編曲という仕事をしている」みたいな意識はなかった。編曲と作曲の境目だってどこにあるのか、非常に曖昧なまま駆け出しの時代を過ごしてきた。

でも、自然と?アレンジの仕事を頂くようになり、最初は自信のなさもあったり自分は編曲家のプロではないから、と伝えることが多かった。今でも、編曲家として名を馳せている方々のように堂々と「私はプロの編曲家です」というのはまだ憚られ、作曲家を名乗っている。

特にプロジェクト、アーティストの規模が大きければ大きいほどファンは沢山いて、皆んながそれぞれ期待している形というのがある。
私のように、どうしても自分のカラーが強く影響してしまう人間が、しかも売れ筋商品を熟知した凄腕でもない、なんだったらそれとは程遠い人間が介入することで、折角の楽曲がぼんやりとしてしまわないか今だに不安に思うことも多い。

でも、私の編曲を信頼してくれたり、任せたいと作った人間に言ってもらえることはやはり幸せだ。自分も自分自身を少しずつ放してあげる努力をしている。
自宅の中で飼っていたペットを、庭先で、慣れてきたら原っぱへ、今ではたまに他の仲間がいる牧場に連れて行ったりするような気持ち。丁寧に、少しずつ。

そういう自分との向き合い方への興味は、自分を信頼してくれる仲間にとってもきっと喜ばしいことなんだと自分から先に信じることにした。

すっかり編曲の仕事が好きになり、昨日も夢中で作業をしていた。一度土台を作り、必ず一度距離を置く。パリの街を歩きながら、何回も聴いてみたり、聴いた時に感じたものを音楽から離して少し横に置いてみたり。この作業は必ず行う。独りよがりにならない為の大切な工程だ。

自宅に帰って肉付けをしていると、全く思っていなかった方向にぐんっと舵を切ることになった。突拍子もないアイデアにささやかに導かれて、これは「うん!いいね!」と簡単には言われないような気配がするのだけれど、予定調和の中でお利口さんに編曲して優れたコストパフォーマンスを発揮するより、今の私はちょっと嬉しい。

歌詞やメロディに連れてってもらった世界の、ひとつの可能性だから。

これを書いた人のことをずっと考えている。
私がとっても好きな人なので、一緒に演奏する妄想ステージみたいなのも想像した。
私はその人が生きていることがとても嬉しい。
出会えたこともとても嬉しいし、特にベタベタ仲良しごっこをしている仲でもないが、
きっと元気なことが嬉しい。

人生で「この人に出会えて良かった」と思う人って、世間的には恋愛とか結婚で扱われることの多いテーマだと思うのだけれど、私にとってどんなラベルを持つ人であるかはあまり重要ではない。本当は、そこに名前なんてなくて良いとすら思っている。人生には何人か、そういうふうに出会う人がいる。

さて、やり直すにしても(やり直しになりそうな気もしている(笑))、この「ひとつの答え」と、あともう一日、晩秋のようなパリを共に歩いてみようかなと思う。

いってきます!

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