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愛の表現とは、感謝の気持ちを伝えること(7/23)

渡仏してから初めて、日本での仕事で一時帰国する可能性がでてきた。

とにかく最近は、実態のない不思議な忙しさに振り回されていて、その中でピアノを弾くことが瞑想のようにも思える。「実態のない」とは、要するに手応えとか成果を伴わない時間経過みたいなもので、私のような生真面目な人間には少なからずストレスを感じていたりする。
そうこうしている間に今日も夜が迫っていて恐ろしい。

昨日は友達にある疑問を投げかけられた。なぜ世武は、他者を褒めるのに自分をそんなに下げるのか?自分を下げなくとも他者を称賛することはできるはずなのに、というような内容だった。

他者から私がどう見えているのかは分からないが、私は自己評価がとても低いようで(多分、低いのだと思う)、それが友人としてモヤモヤっとするみたいだった。
このモヤモヤはひとつの友情の形なのかなと捉え、気持ちが有難いと同時に困ったものだな、とも思った。

何度か小出しに話していたり、随所に滲み出ているものがあるとは思うが、私は自己肯定感が低いのではなくて自己評価が低いだけだ。
屁理屈のようだが、自己認識においてこの違いは明確に分けておかなければならない。

私の自己評価の低さは、おそらく前に話したはずと思うのだが(しかし、いつどうやって話したのかは大失念!)育ちによるものだ。
親から毎日のように容姿を貶されていたし、「私の娘なのに、なんでそんな醜いのか」と言われた言葉は死ぬまで忘れられない。仮に忘れられても、肉体に残ったトラウマは一生消えない。

(多分、彼女も色々と苦労やストレスがあったのだと思うし、今まだ何か責めたい気持ちはなく、私だって彼女のストレスの原因のひとつでもあったのだろう。自分が大人になった今、分からなくもない。いや、分からないけれども、まあもう良いよとは思う。)

家庭でのあれやこれやで卑屈になって行った私は、多分そのせいで学校で虐められていたこともあった。でも大人になって思うのだ。確かに親を含めて彼女たちからすると、私の容姿は醜かったり気に入らなかったりしただろう。ブスでデブだったとは思う。
でもおそらく彼女たちが本当に気に入らなかったのは「私の人となり」なのだ。

人は何か気に入らないことがある時に、分かりやすく攻めやすいところから人を傷つけようとする。その方が、自分は安全地帯で守られる可能性がグッと高まるからである。
明らかに太めの人に「あんたのこういう性格の、こう言うふうにリアクションとるところが嫌い」とか言うよりも「デブ!」と言った方が省エネな上に賛同者も出やすい。
このやって文字にするとあらためて、こういう発言に品格も知性も思いやりも皆無。というか、意味すら持たないような言葉だが、残念ながら分かりやすいので効果がある。

昨今の論破ブームでそれはもうはっきりと証明されたので、私が説明するまでもあるまい。

仮に、親を含めた彼女たちが私の内面を好きでいたら、絶対に容姿の攻撃はしてこないはずだ。簡単な話だ。

そこに対して、自分でここは改善したいなって思う箇所と、いやそれは知らんがな(笑)と思う箇所があって、そこに絶対性みたいなものはなく、個々の好みと取捨選択があるだけ。

そんなわけで私にとって重要なのは「自分が自分を好きでいられる塩梅」であり、それは歳を重ねる毎に強度を増してきた。

とはいえ、未成年の間に培ってしまった自己評価の低さというのは20歳を迎えて突然リセットされるものでもなければ、消せるものではない。(だからこそ大事な、教育や家族の存在)

なので、私の自己評価の低さを今さらどうこう言うのは、なんというか、無意味だと思っている。これが私なのである。これが私と受け入れて、私らしく楽しめることは自己肯定であり、自己肯定感は幾つになっても自力で変えていける。

ああ、人間である歓び!

自分を卑下しているように見えていて、それが誰かの居心地を悪くさせていたらごめんとは思うが、私は自分自身の自己評価にさほど苦しめられていない。ただの「そんなもんでしょ」であり、当然誰かに同情して欲しかったり、気を引きたかったり、かまって欲しいわけでもない。良くも悪くも、そんな大袈裟に特別な話でもないのだ。

私は心や身体の中に色んな感情を留めておけない性分だから、言葉にして放っている。それを聞きたくない人が聞かされるのは気の毒だなとは思うため、聞きたくない人はどうぞ無言で距離を置いてくださいというスタンス。どんな関係性の人であれ、去っていく人は追わない。

それは、自分が好きなように生きることと引き換えに受け入れると決めていることだからだ。

私はこういう人生を幸せに生きているので、本当にお構いなく、だ。
逆も然りで、他者からその人のスタンスも言ってもらえたら、構うも構わないもどちらでも構わない。(なんか人民の人民による人民のための、的な感じあるね?)その人のスタンスに合わせて付き合い方を決めたら良いだけだ。

私が友人や恋人を褒める時、たいてい感無量と感謝が血管を巡って身体を紅潮させるのがわかる。気持ち悪い、重い、など言われそうだが、そんなクールぶってる奴らには一言「我々はどうやら気が合いませんね」と言ってしまう。

それほど私にとって「その人がそこに存在していること」は当たり前ではなく、その感動がなくなったらいよいよ人生灰色〜!!ハイイロ〜

私が自分を卑下しているように見えるなら、それは他者から与えられてきた過去の評価によるポートレートだ。
価値がないことを親から毎日のように繰り返し言われてきたことで散々傷ついた分、他者にはそういうふうに絶対に言いたくないと誓っている。傷つくのは辛いが、それで他者に優しくなれるのならば、十分お釣りがくる。

あなたが存在していることは当たり前ではない、ということを、友人にも恋人にもしつこく伝える。感謝の言葉と共に。それが私の通常運転であり、私の愛情であり、私の私による私のための評価軸などは関係ない。(←この言い回し気に入っただけ(笑))

書ききれない繊細なニュアンスが沢山あるが、野暮用でワタついているのでまたの機会に。


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