この作品はフィクションです。
是枝監督の作品にちょいちょい出会す。
初めて観たのは「誰も知らない」これは名作として名高いが、その次に観た「万引き家族」も最高だった。(「そして父になる」も観ました)
役者さんの演技力とか映画に対する考察とか映画評論家みたいなご高説は私には到底できないが、現在目の前あるのに「世間が見ないふりをしてきた日本の闇が浮き彫りになる」のが良い。
血よりも濃い絆はない
家族よりも深い結びつきはない
結局最後は家族愛だよね!
などとぬるま湯に使ったお花畑脳を打ち砕く強さがある。
「どうせ映画でしょ」
などと言う人とは一生涯分かり合えないと思う。
仕方ない、私とあなたとでは生きている世界が違うのだから。
罵倒され、嘲られ、人権を踏み躙る。
そんなことが家庭の中でそんな事が起きるわけがないと思っているのだろう。
「人は見たいものしか見ない、聞きたいことしか聞かない」
まさにその通りだと思う。
クズの父も兄も弟も世間では人当たりは良く、なんならで「優しい人」「いい人」として通っている。
表面的にはそうもしれないが、実際私ににはそうではなかった。
兄が履いていた靴下を口に押し込まれる。
死んだ虫を頭の上からかけられる
頭を壁に打ち付けられる
養育費の不払い
兄弟間での虐待を見ないふり
お花畑脳の皆さんにはこれら全てフィクションの世界の話なのだから。
風邪をひいて寝ていても、兄が帰宅すると呪詛のように枕元で「本当は仮病なんだろう」と囁かれ、怠い身体を引き起こされて"空気の入れ替えだ"と真冬に窓を全開にされる。
殺されるのかと思った。
泣きながら契約書を書かされて、遊びに行こうとすると命令が下る。
何度も友人との約束をすっぽかしたことがある。
小学生低学年の時は友だち同士で呼び捨てなんて普通にある事だが、兄の元では許されなかった。
「お前、学校で人を呼び捨てにしてるだろ?常識的にそんな事許されるわけない。これをお母さんに言ったらお前はめちゃくちゃに怒られるんだ。俺が言えばそんな事すぐにバレるんだぞ」
友人の呼び方にさえルールがあったのだ。
当時低学年だったが、今でも私はその刷り込みが抜けず、どんなに親しい友人に対しても「さん」「ちゃん」とつけるようになっている。
げに恐ろしきは刷り込まれた記憶だ。
いい大人なのだから、そんな事気にせず呼び捨てでもあだ名でも好きにしたらいいと思うだろう?
これは何度かチャレンジしたができない。
喉の奥で言葉がつかえて出てこなくなるのだ
恐怖心
恐怖で支配された心は大人になってもけして消えない。
これが家族と言えるのか?
言葉で相手を征服し、自分の思い通りにならないと暴力で訴える。
これが本当に家族なのか?
「万引き家族」「誰も知らない」をフィクションだと思っている人がいるとしたら、そのまま貴方は貴方の見たものを信じて生きていけばいい。
けれど、それを他人に押し付けるようなことはしないで欲しい。
親を選べるなら選びたかった。
家庭を選択できるならしたかった。
でも、生まれてきてしまったからにはもう無理な話だ。
親ガチャなんて言葉があるくらいだ
全ての子どもが温かい家庭で育ち
親兄弟に恵まれ
健やかに生きれると思わないでほしい。
受け止めろとは言わない、でも自分の知らない世界がある事は知っておいて欲しいのです。
運命だとか現世での修行だとか綺麗に片付けないでほしい。
今、目の前の困難に立ち向かう事ができず死んだ人を嘲笑うことはしないで欲しい。
お花畑脳の皆さんだって、いつ「こちら側」に来るかなんてわからないのだから。
落ちてきた時に知ると思う。
「これが地獄か」と、そうなった時に「どこへ」「どうやって」「だれに」相談するかは知っておいた方がいい。
私がnoteを書く理由もそのひとつだ。
「生きるための知恵」これは絶対的に必要なものだ、それを使って誰かを蹴落とすんじゃない。
「自分が生きる」ために使う。
知識とはそういうものだと思う。
教えてくれる人がいない、調べることがわからない、そのスタート地点は同じだ…でも動くか動かないか…乗るか反るかは自分次第。
まだ諦めていない。
私の生きる原動力は「家族制度」「血の繋がり」を根本から覆えすこと。
そして、父親と愛人だった弁護士に私の人生の代償を支払わせる事。
誠心誠意という言葉がある。
その言葉通り、きちんと非を認め謝罪し、それなりの態度でいてくれたなら私もここまでにはならなかったかもしれない。
でも、あくまで「かもしれない」の話だ。
私は私が思いつく限りの方法で訴えていく。
この先も「クズ」たちは紹介していくし、それを止める権利は「クズ」たちにはない。
自分たちの行いが恥ずかしいと振り返られたら私このnoteを消す。
それができない限りの、私はここに書いていく。
ただ、それだけのことだ。