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二律背反な世界の中で

『鳥の番(つがい)が飛んで行く』

小説でなんとなく既視感のあるこの表現は、みかけると「ああ、これはアレとアレが隠喩になっているんだなぁ」とか批評家ぶって考える。今回の表紙は、多分、恋愛がテーマの短編集ばかりだったから書いてあるんじゃない?って安易で陳腐な考えだけど、ぼくの浅はかな思考じゃ悲しいかな、それが限界。

ちょっと前に読み終えた「ぬるい眠り」。ぬるくゆるくフワーッと心地よくうとうとしながら読めるかなぁってタイトルに勝手に期待していたけど、実際のぼくの心はといえば、沸騰したり、氷結したりと忙しなくまどろむこともことも決してなかった。ぬるいだなんてそんな柔和な状態ではいられなかった。


恋愛というものは、卵の黄身を差し出す作業に似ていると思う。触れて欲しいし、食べて欲しいけれど繊細に扱ってもらわないと口に運ぶ前に壊れてしまう。破れた黄身はとろとろとただこぼれる。

親しい友人関係は半熟玉子。ちょっととろとろしたところをのぞかせてお互いの弱みを認め合う。

仲良くなれない人とは文字通り殻をわれてない。黄身どころか白身も見えない。だからその人の卵の中身が黄色なのかもわからない。故にミステリアスで恐ろしい。

ただし、とろとろし過ぎると自分の形がわからなくなって自分を認められ無くなって、逆に自分の殻を見てくれる(形を認めてくれる)存在が恋しくなってしまうものなのかもしれない。

✳︎

印象に残ったセリフに、

「死の強烈さの前では、他のすべてのことが色褪せてしまい、恋愛を含む自分自身の日常に、
現実感がなくなるのだ。」

というのがあった。(このセリフが出てくるお話は、知らない人の葬式に出席することに魅せられていく話である。)

全く知らない人の葬式に出ることはぼくはしたことがないのでわからないけれど、どう感情を持って行ったらいいかわからない中、周囲の方の哀しみに当てられて自分がエネルギーを失うんじゃないかなぁなんて思う。ただ、その場を終えると、もしかすると、より生きなくてはと思ったりするのかもしれない。

それだけ死はそこら中にあるのに、みんなが目をつむって見ないようにしている現象なのかもしれない。

一度目を開けてそれを見つめてしまえば、世の生の事象は全て色が褪せ、仮初めに見えるのかもしれない。次第に自分の肉体の輪郭は失われとろけて世界に溶けてしまうかもしれない。

とろけて、形作って、またとろけてぼくたちは出来損ないの土人形なのかも。


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