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血と肉は朽ち、ただの骸になりぬ

「いつもお世話になっております。」「いつもありがとうございます。」定型文で混じ合わされるこの会話にどれだけの価値があるんだろう。

大学時代も特に何かしたわけでもないのに、キャンパスで友達に会うと「おつかれ様」と声をかけあっていた。大学生の疲れなんざ大半は飲み疲れとバイト疲れで、労うような疲れでもないのに、なんてひねくれたことを考えていた。

その点、おはよう。こんにちは。こんばんわ。この三姉妹はなんだか、心地がいい。そこに挨拶以上の意味はないのに。どうしてか逆に意味を内包していないことが相手に“いい感じ”を与える気がする。

意味がある言葉は、その意味によってカチカチに形作られている。そこに乗せるべき感情も声色も表情も、それらを無視して言葉を発すると何故か心のないものに思えてしまう。乗っているべきものが乗っていないのだからそれはそうだ。マグカップにコーラじゃ不快だよね、そこはやっぱりコーヒーか紅茶をいれてくださいね、という話。

一方、三姉妹の使用は、時間に本来縛られているはずなんだけれど、それさえも無視して使われるほど超フレキシブルだ。ほにゃほにゃで形を持たず、誰が乗っても構わない。コーヒーも紅茶もホットかアイスかも問わないし、スプライトだってビールだって構わない。愛想が悪い人もこれさえ言えれば、愛想は悪いけど悪い人じゃなそうだよね、とかなんとか言われたりして逆転の一助にまでなってくれる。

でも、意味を持ってガチガチになっている言葉にはちゃんと適切なものを乗せてやれば、それはそれは多大なる力を持ってるってこともある。もう伝わりすぎるほどによく伝わる。だから大事なことは形骸化させないことなんだよね。そこに肉をつけてちゃんと血を流してあげないと言葉は死んじゃうんだよね。

毎日の投稿で自分が考えていることを文という形にする作業をしているとついつい三姉妹のような便利な枠に感情を入れ込んでしまいたくなることが多いのだけれど、それをしちゃうと、いよいよぼくがこの文書いている意味ないぞってことになってしまうので、なるべくそうしないようにしているし、適切な枠を探す作業をこれからもやめたくないなぁなんて思ったりする。

実は今日のこの投稿で50日目の更新。とりあえず目指せ100!、だね。


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