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嵐の曲が「聴」けるようになった

ご存知かどうか分からないが、ジャニーズの5人組アイドルグループの「嵐」は現在活動休止中である。そして、これもご存知かどうか分からないが僕は10年以上嵐ファンでいる。

嵐が休止してから今年で3年目に突入した。メディアで個々のメンバーを見ることはあっても、5人揃った姿は見ることがない。ただ、嵐としての5人は見れなくても、5人の声はきくことができる。回りくどい言い方をしたがつまり、嵐の曲をきくことはできる。

僕はいまだに嵐の曲をきいている。熱狂的にきいていた昔と比べれば、当然頻度は落ちたがよくきく。


で、ここからが本題なのだけど、嵐が休止してから嵐の曲のきき方が変わった。なぜだか歌詞がスッと入ってくるようになり、心に染みるようになった。別の言い方をすると「聞く」から「聴く」に変わったのだ。

「聞く」と「聴く」の違いについて、NHK放送文化研究所のホームページではこういう説明がされている。

Q「話をきく」や「音楽をきく」などと言う場合の「きく」の書き方に「聞く」と「聴く」がありますが、この場合の表記の使い分けはどのようにすればよいのでしょうか。

Aただ単に「きく」場合は一般に「聞く」を使い、注意深く(身を入れて)、あるいは進んで耳を傾ける場合には「聴く」を使います。「音楽を聴く」「講義を聴く」

嵐が休止してから、嵐の曲を「聴く」ようになった。逆に言うと、それまでは「聞く」に留まっていた。いや、それどころか「浴びる」に近かったかもしれない。
好きすぎるがゆえに、嵐が歌っているという事実だけでよかった。何を歌っているかより、誰が歌っているかを重視していた。だから、新曲が出る度とりあえずCDを買っていた。
今考えてみると、毎日のように曲を耳に入れていたが、歌詞もメロディーもちゃんときいていなかったかもしれない。熱量があることは、盲目になることと近い。

熱量を常にマックスにすることはできない。いずれ下がっていくものだ。それは別に無関心になったというわけではない。よくもわるくも、時間の経過の賜物だ。主観的だったのが、少しずつ客観的になっていったのだと思う。


客観的になったからこそ、「聴」けるようになった。例えば、『明日の記憶』という曲を改めて聴いて、その歌詞がとても深いことに気がついた。(この曲は嵐の活動休止前、最後のライブでも歌われた曲である。おそらく嵐なりの意図があっての選曲だ)。

冒頭の歌詞を引用しよう。

あの日君と見ていた
夕焼け永遠にしたくて
記憶の中手を伸ばして
何度も触れようとするけれど
同じ景色も気持ちも
二度とは取り戻せないから
輝いてた過去の夢を
振り返ってしまうんだろう

2009年発売 作詞:平義隆

かなり哲学的である。この曲はそれまで何回もきいていたはずなのだが、こんな含蓄のある曲だとは気づかなかった。


他にも、改めて聴いてみると印象が違ってきこえる曲がたくさんある。全部の曲がそうだと言っても過言じゃない。

なぜ聴けるようになったのか。嵐の活動休止という意味付けがなされたからかもしれないし、僕の情景想像力が上がったからかもしれないし、前述したように距離ができて客観的になったからかもしれない。


遠距離恋愛と一緒ですね。知らんけど。

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