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マタニティマーク

私は今、2度目の妊娠中である。
1人目のときは、コロナ禍ということもあり、仕事は早々に休ませてもらったし、あまり外出もしないようにしていたので、公共の場でマタニティマークを付けて歩く機会はあまりなかった。

今回は、仕事もしていたので妊婦の状態で満員電車に揺れる事もしばしばであり、マタニティマークを付ける事で生じる様々な感情に向き合う機会があった。これは後の人生においても貴重な経験だったと思う。

まず、再び妊婦になった私は、マタニティマークを鞄につける事を躊躇する感情が生まれた。世の中の色々な人に、私は妊婦です、と公言するのが憚られたからだ。まだお腹が大きくない時期は、悟られたくない気持ちの方が優っていたように思う。理由はいくつかあるが、一つは、世の中の全ての人間が、自分の妊娠を歓迎するわけではないという事を分かっていたからだと思う。私は何年か不妊治療を経験しており、治療中、精神的に追い込まれた時期は、妊婦さんや子連れの人を見かけるだけでも落ち込んだし、妊娠出産を報告してくる友人達にもイライラしていた事があった。マタニティマークにも、敏感だった様に思う。今、立場が逆転し、そんな人達を知らない間に傷つけるのが嫌だなぁという感情に襲われた。また、ただでさえ、この国の人は妊婦さんや子連れにはあまり優しくないイメージがあった為、マタニティマークなんかつけて、変なトラブルに巻き込まれるのも恐ろしく感じた。

とはいえ、つわりがひどくなってくるとそうも言ってられなくなった。今回は特にひどく、毎日もう死にたいと思うほどに辛い日々が続いていた。そんな中でも、普通に電車に乗って、通勤しなければならないため、朝は混雑するとはいえ絶対に座りたい思いが強かった。だから私は、通勤で電車に乗るときと、道を歩くときだけマタニティマークをつける事にした。

その期間、2人の優しい女性に出会った。1人は、私より少し若い会社員の方だったと思う。ある日の通勤時、電車内で座る場所がなく、座っているその女性の前に立つと、その瞬間に、その人はすぐに「どうぞ」と言って立ち上がり、席を譲ってくれた。その女性にとっては普段通りの何気ない行動だったのかもしれないが、マタニティマークをつけた私はこの女性に心から感謝したい気持ちが芽生えた。席を譲る事は私もした事があるが、譲られた事はこれが初めてだった。譲られた側は、こんなに有難く、温かい気持ちになるのだという事をこの時初めて知り、私は彼女が下車する際にもう一度声をかけ、お礼を言った。もう一度言いたくなるくらい、それくらい有り難かったし、感謝していた。

もう1人は、私の母親と同じくらいの世代の女性だった。マタニティマークをつけて電車で立っていたが、目の前に座っていた男性会社員や学生は、スマホを見たり、下を向いて音楽を聴いていたりして、席を譲ってくれそうになかった。このまま下車まで頑張ろうか、と諦めていたとき、私の隣の隣に立っていたその女性の前の席の人が下車し、席が空いた。少し遠い席だったし、位置的にその女性が座ると思ったので私は動かなかったのだが、その女性は私の所まで来てくれて、私の腕を引き、その空いた席に座るよう促してくれた。まさかの出来事に驚きつつ、私は再び感謝の思いで一杯になった。「ありがとうございます」と私が言うと、その女性は笑顔でお腹をさする振りをしながら、一言、「大事」と言ってくれた。私や家族以外にも、お腹の赤ちゃんを大事に思ってくれる人がいる事に胸が熱くなり、有難く、この事は生涯忘れないでおこうと思った。

マタニティマークをつけた事で、こんな心温まる経験が出来たのは有難い限りだったが、通勤時、いつもこんなに恵まれていたわけではなく、時には、やはり全く席を譲ってもらえない日もあった。決めつけるわけではないのだが、やはり割合としては、学生、男性会社員の前に立ってしまうときはこうなる事が多かった。スマホや音楽に気を取られて、本当に気付いていないのかもしれないが、時には、絶対に目に入る位置にマークが見えているはずなのに、譲る勇気がないのか、目を逸らしてソワソワしている人もいた。つわりがあまり酷くないときは、仕方ないなと、思うくらいで済むが、つわりが酷いときは、鞄を下ろし、奥の扉に寄りかからないと立っていられない程辛かったので、その姿を見て誰か席を譲ってくれないものか、私だったら譲るぞ、と切実に感じたものである。

そのとき、ふと感じた。世の中、マタニティマークだけでなく、障害者マークなど、様々なハンディキャップを持った人がマークを鞄等につけて、公共交通機関に乗車してくる事がある。その人たちは、自分の素性をわざわざマークで明かしてまでどうして電車やバスに乗るのか。これは単に、席を譲る配慮をしてほしいが故である。それがなくて、どうしてリスクもあるのにマークをつけて電車やバスに乗るというのだろうか。自分からこういう理由だから席を譲ってくださいと言いにくい状況故に、わざわざマーク意思表示をせざるを得ないのである。従って、マークを付けている人の中で、席を譲っても、いいです、いいです、と言って拒否する人はまずいないのではないかと思う。だから、マークを付けている人を見たら、100%声をかけて、席を譲ってあげるのが正解だと思うのだ。マークに気付いて、譲ろうか躊躇している人は、その躊躇している時間の分だけ、そういう人を辛い目に合わせていると思った方がいい。マークを付けている人に声をかけて席を譲るのは、100%その人が救われる行為だと思うので、自分の体調が悪くない限りは、絶対にやってあげた方がいいのである。

今の時代はストレス社会で、電車に揺られながら、疲れきっている社会人や学生が多いのは事実だと思う。そんなとき、誰かに席を譲る気持ちの余裕が生まれないのは確かに分からないでもない。まして、妊娠を経験していない人は、つわりがどれだけ辛いのかも分からないし、健康な人は、障害や身体に重い病気を持った人が電車に乗る事がどれだけ大変ななのかも分からないだろう。全ては実際に経験しないと分からないものなのだ。でも、分からないからこそ、マークという最も消極的な声無き声に耳を傾けてあげる必要があるのではないだろうか。人と人は、分からなくても出来るだけ気持ちに寄り添おうとする気持ちを持つだけで、温かい気持ちの化学反応が生まれるような気がする。疲れていても、こういう化学反応を起こせる人は、自分の殻を破り、自分の力で前に進める人になれると思う。いつも思うのは、人を助けているとき、確かに自分も救われたような気持ちになるのだ。そしてその気持ちが、明日へ生きるエネルギーになっているように私は感じる。人は助け合うことで生きていける。よく綺麗事のように聞く言葉ではあるが、あながち間違いじゃないと、私は思っている。

今後も幾度となく電車やバスに乗るだろう。その度に、私はマタニティマークをつけていたときに感じた気持ちを忘れないでいたい。そしてこの国で、マークをつけた人にはすぐ席を譲るという常識が出来るだけ早く定着していってくれる事を願うのみだ。


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