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袴田事件に思うこと

先頃、1966年に静岡の味噌会社で起きた強盗、放火殺人事件で死刑判決が言い渡されていた袴田巌さんの再審開始が確定した。この事件は検察が証拠を捏造したと言われているのだが、このような冤罪になりうる事件は戦後5件目のことだそうだ。つまり最低でも5人の無実の人が、長い間死刑判決に苦しめられていたということになる。何もしていないのに、疑われ、自白を強要され、挙げ句の果てに法的に死ぬよう宣告される。こんな人権無視が長い間、もしかすると今でも日本の司法に蔓延っている状況なのだとしたら、何とも恐ろしいことである。

世界では、死刑制度を無くしている国が7割を占める。そんな中、日本は死刑制度を無くす動きはあまり見られない。歴史上、古くから死を持って償うという精神は日本人の中に備わっていたと言える。古代の律令制度然り、中世以降の武士道精神もまた然りである。後者の精神は、形は違えど、近現代の戦争でも受け継がれていたし、現代の殺人事件等でも、犯人が自殺して自らの罪を償おうとする姿がドラマでも描かれているし、実際にもある。しかしこれに関しては、多くの日本人が今は、死んでどうする、生きて罪を償う方が被害者への弔いになると考えている人が多いように感じる。しかし、前者の律令制度に続く現代の司法の場ではどうだろう。法律の下であれば、死を持って償えという考え方が良しとされているように思う。一定期間刑務所の中で罪を償うから最終的にはその上で死んでほしいと思っている遺族の願いを聞き入れるべきだという考えからだろうか。犯罪者が背負うべき最も重い罪が死刑だから仕方がないという、特に深い考えもなく、当然のこととして受け入れているだけのことなのだろうか。

しかし私は、死刑については一人一人がもう少し考えるべき問題だと思うのだ。例えば袴田さんのように冤罪だった場合、死刑が執行されてしまえばそれは取り返しのつかない事態になってしまわないか。確かに、遺族の中には死を持って償ってほしいと感じる人もいるかもしれない。それでも、人の命を法律を掲げて奪うことなど、そもそもあっていいのだろうか。死んでしまえばその人の全てが終わる。後には何も残らない。消えてしまうだけだ。もしかすると、受刑者の中には、この辛く苦しい世の中からやっと抜け出せたと、安堵の表情で逝く者もいるかもしれない。そもそも死とは、最大の償いになり得るのだろうか。

私は、死刑より、生きて重い罪を課し続ける方がよっぽど受刑者にとっては辛く、苦しい刑になるのではと感じている。受刑者にとって死刑は、死ぬのは嫌かもしれないが、罪の意識から逃れられる方法だとも言えるからだ。それなら生きて、一生を償うことに費やす方が、受刑者自身も、自らの罪に向き合い続けることで更生の道も見えてくるかもしれない。もちろん、いちばん重い罪は絶対に釈放のない無期懲役が前提だとは思うが。それに、加害者が死んだところで、被害者は戻ってくるわけではない。結局のところ遺族の苦しみはずっと続くのだから、生きて償っている姿を見せる方が、恨みの対象がずっといてくれる方が遺族にとってもいい場合があるかもしれない。この辺りは、私は遺族ではないので勝手な事は言えないが。

とにかく、このように議論の余地があるのがこの死刑制度の問題だと感じている。死刑を当たり前と思わず、本当に妥当な刑罰なのかどうか、多くの場で今後も話し合っていく必要があるのではないだろうか。

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