【20代の頃】モットーが「なんとかなる」になった嗚咽事件
上司がくれた言葉がモットーになった
周りにはもう誰も居なくなったオフィスで、嗚咽するほどヒックヒック、エックエックと泣きじゃくる私、当時22歳くらいと、上司(30代後半くらい)がいました。
上司は、笑いながら、
「どうした、澤田。いっぱいいっぱいになったんか。はははは、大丈夫!」
つづけて、
「仕事なんかなぁ、なんとかなるんだ。大丈夫だ!」
さらにつづけて、
「で、俺は何を手伝えばいい?」
と、声をかけてくれた。
もう、その瞬間に肩の荷が、本当に降りたのを体感できた。
「なんとかなる」という言葉が身に染みた。本当になんとかなるものだ、と思えたし、実際なんとかなった。
このことばに、このことばをくれた上司に本当に感謝した。こころから感謝した。「上司」っていう存在っていいな、って思った。
上司からすれば私が抱えていることは、上司が思う「しんどさ」の1000分の1くらいだったのかもしれない。
なぜ、嗚咽するにいたったのか
出版系の制作会社で営業兼進行管理をやっていたころ。アルバイトだったけれど、目標数字や担当商品を持たせてもらい、満ち溢れたやる気しかなく、自分なりに仕事ができはじめたころでした。
23時過ぎ、思った以上に仕事が進まず、作らなければいけない資料が溜まりつつ、なんだか先に進まないなあと思っていた。
「どうしよう?」
「何から手を付ければいいんだろう?」
「この資料、どうやって作ればいいんだろう?」
グルグルを頭が回り始め、答えが出なくなっていた。
島(グループ)には、もう上司しか残っていない。上司とはあまりじっくりと話したことは無かったと記憶している。この日までは。
「どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない、どうしよう、わからない」
もう、これしか頭に浮かばない。
毎日23時過ぎまで、過渡期には朝まで残って「あー、朝日だー」なんて言いながら仕事をしていれば、冷静に考えることすらできなくなって当たり前。
しかも、
この時の私は、とても簡単なことができなかった。
「困った時に相談すること」
ちょっとしたことは質問できるのに、窮地ではそれができなかった。
横にいる上司にちょっと質問すれば良かっただけなのに、それをする発想がまるでなかった。
「自分でやらなければ」という抱え込み思考満載でした。
「どうしよう、わからない」をどれくらい唱えたか分からないけれど、そんなときに、上司が声をかけてきた。
「おう澤田、どうした?」
その瞬間、張りつめていた私の何かの糸がプッツンと切れました。
で、感情がブわわわワワわわっっっと溢れ出た。
で、記事の始めに戻る。
言った本人はまるで覚えていなかった
嗚咽事件以降、私にとってこの上司という人は、とても信頼できる人になった。結婚式の仲人にもなってもらった。以降、しんどいときに相談にも乗ってもらった。いつでも真摯に向き合ってくれた。とても尊敬できる人。
なのに、
この事件の話しを、懐かしの昔話として話した時に、
「なにそれ?俺、そんなこと言った?」
と、言ってのけた。
・・・ことを、私はネタにしている。今は。
最後までお読みいただきありがとうございました。
株式会社シールズ 澤田玲奈