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ヘーゲル・セレクションを読んでいる。

 『ヘーゲル・セレクション』(平凡社ライブラリー)を読んでいる。

    kindle版で20%あたりまで来た。言っていることの意味はよくわからなかったが、ヘーゲルという人間が、どんな感じの人間なのかは、少しわかった。

 なぜこんなめんどくさいものを読もうと思ったのかというと、カール・バルトの『ローマ書講解』を読んでいて、飽きたからだ。それで、積んでいたヘーゲルセレクションでも読むかとなった。

 なぜ『ローマ書講解』みたいなめんどくさいものを読もうかと思ったかというと、カール・バルトはなんだかんだ、現代のキリスト教徒として触れておいたほうがいいかな、と思ったからである。

 なぜ現代のキリスト教徒として、触れておいたほうがいいかな、と思ったのかというと、それは僕がけっこう真面目な性格だからじゃないだろうか。

 なぜ僕がそういう真面目さを持っているのかというと、それは、わからない。こうやって、なぜ、なぜ、を遡っていくと、最後はわからないよな。

 世の中の文章には、「弁証法(的)」とか、「止揚(揚棄)」とか、「契機」とか、「疎外」とか、ヘーゲル用語がよく使われているから、触れておいて損はないかもしれない。「契機」とか「疎外」はヘーゲルの文脈じゃないことも多いと思うが、なんだかんだ、批評の文章とかでそういう含みで使われてたりするのを何度か見た気がする。しっかりした記憶じゃないから、どこで見たかはすぐ挙げられない。そういう文章というのは、たいていが面白くないから、記憶に残らない。

 意味はわからないのだが、気になるところはあった。ヘーゲルによるとどうやら、「止揚すること」というのは、「理性の唯一の関心事」なのだそうだ。

精神 と 物質、 心 と 身体、 信仰 と 悟性、 自由 と 必然、 等々 という 形式 での 対立 が〔……〕 教養 の 進展 とともに、 理性 と 感性、 知性 と 自然、〔……〕 絶対的 な 主観性 と 絶対的 な 客観性 という 対立 の 形式 に 移行 し て いっ た。   固定 さ れ た この よう な 対立 を 止揚 する こと、 それ こそ が 理性 の 唯一 の 関心事 で ある。 しかし、 この 関心 には、 あたかも 理性 が 対立 的 措定 や 制約 一般 に 背 を 向け て いる といった よう な 意味 は ない。 という のは、 生 という もの は 永遠 に 自己 を 対立 措定 的 に 形成 する もの で あり、 それ ゆえ 必然的 な 分裂 は 生 の 一 要因 を なし て いる からで ある。 そして 綜 体 性 は、 最高 の 分離 からの 再生 という 仕方 によって のみ はじめて 最高 の 生動 性〔 という 在りかた〕 の うち に 在る こと が 可能 なので ある。〔……〕

G.W.F. ヘーゲル. ヘーゲル・セレクション (平凡社ライブラリー852) (55頁、Kindle の位置No.720-726). 平凡社. Kindle 版.

 ここでいう「理性」というのが何なのかというと、

絶対者 は、 その 現象 で ある 理性 が そう で ある のと 同様、 永遠 に 一個 同一 の もの で ある 以上、 自己 自身 を 目ざし、 自己 を 認識 し おえ た 理性 は、 いずれ も 一つ の 真 の 哲学 を 産出 し、 その 解決 と 同じく、 あらゆる 時代 を通じて 同一 の 課題 を 解い て き た。 自己 自身 を 認識 する 理性 は、 哲学 において は、 ただ 自己 自身 としか 関わり を もた ない ので ある から、 その 活動 と 同様 その 全 成果 も 理性 自身 の うち に ある。 そして 哲学 の 内的 本質 について いえ ば、 先行 者 も なけれ ば 後続 者 も ない。 

G.W.F. ヘーゲル. ヘーゲル・セレクション (平凡社ライブラリー852) (Kindle の位置No.669-674). 平凡社. Kindle 版.

 絶対者の、その現象なんだそうだ。その絶対者というのが何なのかというと、冒頭の解説に、

「 真理 は 全体」 で あり、 従って、 学 知 は 体系的 全体 で ある こと を 要求 さ れる。 哲学 が 対象 と する この 全体 的 真理 は、 宗教 の 対象 と 別もの では ない。 それ は 芸術 が 対象 と する ところ の もの とも 別 では ない。 しかし、 当の 対象 を 芸術 は 直観 という 形式 で、 宗教 は 表象 という 形式 で 把 える の に対して、 哲学 は それ を 概念 という 形式 で 把 え 返す。 けだし、「 哲学 と 宗教 とは 内容 を 同じ う する」 とさ れ、「 哲学 は 芸術 と 宗教 との 統一 で ある」 とさ れる 所以 で ある。 ─ ─ 哲学 は 絶対者 の 概念的 認識 で ある という 際、 この 絶対者 はかの「 神・人」 の 範式 で 理解 さる べき で あっ て、 そこ では 認識 者 たる 人間 が「 絶対知」 の 高み にまで 帰 入 し て いる 次第 なので ある。

G.W.F. ヘーゲル. ヘーゲル・セレクション (平凡社ライブラリー852) (Kindle の位置No.533-540). 平凡社. Kindle 版.

 とあった。概念として捉え返すにあたって、「絶対者」という言葉が必要になってくるのだろうか。この「神・人」というのは、

( キリスト 教 に対する ヘーゲル の 態度 には、 青年期 に 或 る 屈折 も あり、 正統派 神学 の 立場 からは いずれ に せよ 多分 に 異端 的 と 見 做 さ れ ざる を え まい。 しかし、 彼 本人 として は 真 の キリスト教 的 立場 を 自認 する に 至っ て い た 筈 で ある し、 少なくとも われわれ 非 キリスト教 文化圏 の 眼 で 見る とき、 彼 の 哲学 は 意想外 なほどの 深度 で キリスト教 の 合理化 と 相即 的 で ある)。 本書 の 性格 上、 いわば〝 前意識〟 に 属する この 方面 について は、 特段 の 章句 は 含ま れ て い ない が、 読者 は 恒 に、 父 なる 神 と 子 なる イエス・キリスト との、 疎外 的 分裂 と 聖霊 における 宥和 的 統一 という 範式 を 念頭 において 読み 進め られる と 便利 で あろ う ─ ─。

G.W.F. ヘーゲル. ヘーゲル・セレクション (平凡社ライブラリー852) (Kindle の位置No.526-532). 平凡社. Kindle 版.

 ということが書いてあるので、父なる霊としての神と子なる肉としてのキリスト的な意味で、「神・人」なんだろうか。「 彼 の 哲学 は 意想外 なほどの 深度 で キリスト教 の 合理化 と 相即 的 で ある」とあるのでそういう理解でいいんじゃないだろうか。ただそれを概念的に捉え返すんだろう。

宗教 の 対象 は 哲学 の それ と 同様、 客観性 の 相 における 永遠 の 真理 そのもの〔 die ewige Wahrheit in ihrer Objektivität selbst〕、 つまり 神 で ある。〔……〕 哲学 は 世俗 の 知恵〔 Weisheit der Welt〕 では なくし て、 非 世俗的 な もの の 認識 で あり、 決して 外的 な 物質 の 認識 や 経験 的 な 定 在 や 生活 の 認識 では なくし て、 永遠 なる もの、 神 で ある ところ の もの、 神 の 本性 から 流露 する ところ の もの の 認識 で ある。 というのも、 神 の 本性 は 自 から 啓示 さ れ 展開 さ れ ず には おか ない からで ある。 哲学 は、 それ ゆえ、 宗教 を 説明 する こと によって もっぱら 自 からを 説明 する ので あり、 また 自 からを 説明 する こと によって 宗教 を 説明 する ので ある。

G.W.F. ヘーゲル. ヘーゲル・セレクション (平凡社ライブラリー852) (Kindle の位置No.972-978). 平凡社. Kindle 版.

 「 哲学 は、 それ ゆえ、 宗教 を 説明 する こと によって もっぱら 自 からを 説明 する ので あり、 また 自 からを 説明 する こと によって 宗教 を 説明 する ので ある。」

 なるほど。

本章 の 行文 は、 次 章 以下 に対する 予備 階梯 として、 稜線 画 と いう よりも むしろ、 幾つ かの 点景 描写 の 補綴 に なっ て いる。 所 掲 の 各 断片 には、 直線的 な 脈絡 は 存在 し ない もの と 承知 の うえ で 縦覧 いただき たい。 編者 の 思惑 では、 後 論 を通じて、 本章 での 点景 が やがて 或 る 纏まっ た 景観 を 現出 する 筈 で ある。

G.W.F. ヘーゲル. ヘーゲル・セレクション (平凡社ライブラリー852) (Kindle の位置No.540-543). 平凡社. Kindle 版.

 はい。
 大人しく読んでおくのが良さそうだ。

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