こいし

浮いたりしずんだりしています すずりはじめました https://suzuri.jp/seas

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最近の記事

うろおぼえ ぽけもんず

    • こばんを食べなかった 大人になってしまう気がした 伸びていく髪や爪が嫌だった 変わってゆくのがこわいのにまた朝が来る 私は私の一生をかけて何を残せるのだろう 残せるものなどないと悟って子を作り次に託すのだろうか 私より長生きな私を覚えていてくれるもの 執着がほしい 未練がほしい 吐瀉物くらいみっともなくとも それでも綺麗さっぱりよりかは幾分マシに思えるだけの 終わるそのときまでずっと繭の中なのかもしれない いつまでたっても蝶になどなれないのかもしれない ぐち

      • 毒なのかもしれない

        やがて目は濁り、耳は詰まる。 甘い香りに浸ったまま動けなくなるように退化し、その働きは失われる。 この夜が明けてほしくないだとか、ずっと一緒に居たいだとか、そんな事を言いながら僕らは毒を健やかに育み死んでいく。 いつしか満足して、もしくはどうでもよくなって、生きたいという気持ちなんかも忘れて、あぁ幸せだったなんて言って。 ショックで飴玉が割れないように、幸せというものに溶かされて終わりを迎えられるように、丁寧に転がしている。 ガリッと思いきり噛んで飲み込んでしまおうか

        • 2度寝する女の子① -赤いきつね-

          「嫉妬心の欠如した人間と結婚しな 」 byおばば

          これは私のおばばの言葉である。 以来、「嫉妬心の欠如」は私の座右の銘であるが、そもそも嫉妬心というものは遺伝子の性質故か私にも足りていない。元来私はおばばの孫なのである。 一言でいえば、おばばは超人である。他人に嫉妬する機会も少なかったのだろう。おばばにとって嫉妬心の欠如とは、嫉妬しないですむだけのポテンシャルなり広い心なりを持ち合わせていることと同義なのだと思う。 おばばの孫であることを誇りに思う。 ありがとうおばば。

          「嫉妬心の欠如した人間と結婚しな 」 byおばば

          いつか全てのものをグロいと思う日が来るのかもしれない

          花って綺麗だけどグロいよね。 ってか世の中大抵のものはグロいと思う。 昔は昆虫というやつに何の抵抗もなかったのに、今はマジで駄目だ。マジで。トリプルアクセルをしろってのと同じくらい、私には鍛錬を重ねてもどうにもならないことな気がする。蝉とか死ぬまで触れないと思う。 今夕飯で食ってる目の前の魚と蝉の違いは何だ。ずっと食べ続けてきたから平気なのか。食文化というやつか。小さい頃からの刷り込みか。慣れってやつか。 幼少期の体験を疑い始めると信じられるものはもう何も無い気がする。

          いつか全てのものをグロいと思う日が来るのかもしれない

          ずっとは一緒にいられない

          実家へ帰った。 いつぶりだろう。自粛ムードも収まりどきなのか、改札付近ではスマホと向き合いながら誰かを待っている人達がちらほら見える。 バイト先でもらったワタリ蟹をせっかくだから実家で味噌汁にしようということになって、予想もしない形で帰ってきている。 母と何気ない話をしながら車で家へ向かう。 2匹の犬が出迎えてくれる。 父と酒を飲む。 祖母と本を貸し借りする。 朝方まで話し込み、昼すぎまで眠る。 「ライ麦畑でつかまえて」をバックに入れて家を出る。 そうしていつもの日常へ戻る

          ずっとは一緒にいられない

          感覚派、論理派に対する違和感

          感覚派と論理派、あなたはどちらかという話がある。 私はこの話題があまり好きではなくて。というのも、この表現を借りるなら「論理的な説明のできる「感覚派」」が不憫に感じられることが多い。 感覚派の人がその表現手段の一つとして「言葉」を選んだとする。もしくは発信手段として「言葉」を磨いていくとする。次第に彼は自分の感性をより正確に誰かへ発信するために、「言葉」を巧みに操れるようになっていく。「言葉」というフィルターに通すことで順序立てて彼は感性を発信していく。すると周りがこんなこ

          感覚派、論理派に対する違和感

          未来の私へ

          映画を見て、本を読んで、ベッドから出れない時間を過ごす度に安心する。 まだ私は昔の私に寄り添うことができる。弱いままだ。 一度強くなってしまったらきっともう戻れない。 SNSでは決して特定された個としての自己表現を進んですることのない私や、その一方で十分に世渡り上手な側面を持つ私、これはそんな様々な私が、私へ向けて結論付けたこと。 私の理解者は私しかいない。 それなのに、日々私は変わってゆく。 いつも変化に怯えている。 理解してくれるだけでいい。肯定や否定はどちらでもいい

          未来の私へ

          大人になれない。

          「知ってしまったら知らなかった頃には戻れない」を信条に掲げていたはずなのだけれど、それも終わりを迎えようとしている。 知りすぎた。無知を個性に世を渡るのはもう限界で、今後私は知りすぎるくらい知らなければ凡人として扱われる。今までは「知らなすぎる」で通っていた。そろそろサヨナラをしなければならない。私らしい私をもう世間は許してくれない。大人にならなければいけない。 私はまたも日本地図を覚えようとしている。みんなと一緒になるまいと断じて覚えることのなかった日本地図。 このところ

          大人になれない。

          4さいの木のぼり

          4歳のときのこと 幼稚園のお昼休み、木登りをした。 時計台のついた木製の滑り台にはしごやトンネル、網何かがついていて幼稚園のシンボル的なものだったのだけれど、いつものようにその周りでみんなと鬼ごっこをしていた。次第に遊びが移り変わり、何かのごっこ遊びをしていたのだけれど飽きてしまったのだと思う。 私は滑り台小屋からイチョウの木に伝いそのまま登り始めた。 滑り台はイチョウを含む数本の木々に囲まれていて、高いものだと20mくらいになっただろうか。高い木へ高い木へ移っていって、つ

          4さいの木のぼり