【短編小説】 新人類
昼下がりの地下鉄は乗客がまばらだ。対面には若い女が座っている。短いスカートを履いており、スマホを熱心に操作していた。
私は電車の中で苦悩していた。旧人類となるか、それとも新人類として生きるのか。
世の中には経済を見通すのではなく、スカートの中を見通していた経済学者がいるが、私も同じ穴のムジナだ。大学教員でありながら、性に正直である。
いつもであれば、見られている側が恥ずかしくなるほど熱視線を浴びせるのだが、今日は視線がうつろで定まらない。ピンク色の下着が見えているが、なにも感じない。スーパーでパック詰めされた細切れ肉を見るのと大差がない。
なぜならば私は今、絶望に支配されている。そこから脱したいにも関わらず出来ないでいる。性欲でさえ、この絶望の前ではまったくの無力だ。
いくら幸福を積み重ねたところで、不幸が幸福に転じることはない。幸福と不幸は対称ではないのだ。この絶望という名の便意を取り除かない限り平穏が訪れる事はない。そう、私は便意を、トイレを我慢している。
そんな事は意に介さず、電車は暗いトンネルを静かに、そして確実に進んでいる。しかし、私の中のブツはすでに直腸というトンネルを通り抜け、肛門によって、かろうじて堰き止められていた。
顔には脂汗が滲んでいる。しかし、駅に着くまでの数分間をなんとか耐える事ができることができれば、明日も威厳に満ちた顔で学生の前に立つことができる。
18歳をピークに、便意にあらがう基礎体力みたいなものが年々と下り続けているが、後、数分であれば、この緩みきった53歳の体でも耐えられるはずだ。
その時、「不幸は連鎖するものだ」と何かのセリフが脳内に流れた。と同時に鋭い金属音が鳴り響き、強い慣性とともに電車が減速していく。
もうトイレは間に合わない。そう思った瞬間、絶望に押しつぶされそうになった。目の前が数段階、暗くなっていく。心は萎縮し、相手もなく赦しを乞うていた。そしてまもなく、先頭車両が肛門から飛び出そうとしている。もう歯止めは効かない。
その刹那、走馬灯のように思考が巡り始めた。
人類は約1万年前までは遊動生活をしていたと言われている。定住はせずに、日々移動しながら生きてきた。人間はトイレの作法よりも、言葉を先に覚える。人間にとって、排便のコントロールというのは、それほど高度なことであり、かつ不自然なことなのだ。その場で我慢せず、排便して、移動することが人間という生物にとっては自然なのである。
そう、その場で排便するだけなのだ。
おもむろに立ち上がる。シートに染み込ませるわけにはいかない。しかし、立ち上がる時の腹圧により、想像していたよりも勢いよくブツが吹きでてきてしまった。
周囲に情けない音が響き渡り、異臭と共に周辺がざわつき始めた。ズボンの裾から茶色い液体とも固体ともつかぬものが顔見せている。
対面の女が汚物を見るような目で、いや、まさしく汚物を見る目で、私の顔と足元を交互に見ている。近くに座っていたサラリーマン風の男は舌打ちして他車両に移っていった。斜め向かいの大学生達は嬉々としてスマホをこちらに向けていた。
私は微動だにできなかった。恥ずかしさと情けなさが込み上げていた。同じ車両内という緩いコミュニティの中で私は完全に孤立し、侮蔑されていた。
そして、また電車は動き出す。その時、電車の窓に反射した私が見えた。自分が思っていたよりもずっと普通であった。たとえ、糞尿を漏らしていても悠然と立っている、周りの視線も気にしていない。
ように見えた。
そう、ように見えただけで、ただの幻想だった。ただ、そうであってほしかったのだ。実際はとても情けない顔をしていた。なによりも情けないのは漏らした事ではなく、漏らした程度でここまで動揺し、狼狽えている自分自身だった。
違う。違うのだ。今こそ意識の次元をあげるのだ。
そうだ。悠然と、胸を張り、堂々と立つのだ。糞を漏らしたからなんだというのだ。私はこの監視社会という監獄の中で生きることはしない。自由人なのだ。新人類なのだ。
......
降り立ったのは、地上駅のホームだった。残酷なほど紅い夕陽が景色を染めている。そのなかでレールの表面のみが反射で白く光り輝いてた。わたしの頬を流れる軌跡がレールと連なって、どこまでも流れていくようだった。